報告 平和を求める8・15集会
 
  去る8月15日午前10時より大宮教会にて社会委員会主催の8・15集会が開かれました。深見祥弘牧師の司式、説教による開会礼拝に引き続き、沖縄教区平良修牧師による講演「沖縄・沖縄教区から見える日本国・日本基督教団」から聞きました。
 以下、講演内容の概略を記すことにより、遅くなりましたが報告させて頂きます。

T. 沖縄という鏡を通して見える日本という国家
1. 沖縄県民の自意識
沖縄という鏡を通して日本を見ると、日本は罪深い恥の多い国であることが見えて来る。沖縄で「あなたは日本人だと思いますか?」との問い(この問いが可能なのは沖縄だけと思える)に対して、「日本国籍はあるが、日本人ではない」と言う人が、2005年40%、2006年30%、2007年41%を占めている。これが沖縄県民の自意識である。「日本人です。」と言えなくさせているバリケードがある。それは何故か?
2. 何故そうなのか
@ 沖縄(琉球)独自の文化と民族性がある
 千年近くに及ぶ琉球王国としての歴史がある。周辺諸国との交流を通じて独自の文化、民族性を作り上げて来た。そのような固有な文化、民族性を戦争も基地も破壊することは出来ない。(ここで、私は沖縄県の皆さんが誇る「琉球王国」の独自性、アイデンテティーを強く感じた。)
A 今日まで続く構造的な沖縄に対する差別がある。
 第一次琉球処分
1879年:琉球処分 明治政府による「処分官」の派遣。日本に強制的に同化させられた。(軍隊が派遣され武力で首里城は陥落させられた。)日本による不当な侵略、構造的に沖縄県人は「日本人?」なのかという疑いが生まれ、日本に対する不信感が持たれるようになった。
 第二次琉球処分
 1945年:沖縄地上戦 本土防衛の為の時間稼ぎ、沖縄は捨石とさせられた。その間、天皇護衛の為に松代地下壕の建設が進められていたのである。完成後沖縄司令部の3人の将校が自決した。
 第三次琉球処分
1952年:マッカーサーの支配下にあった日本は独立を回復した。しかし、沖縄は引続き占領下に置かれた。それは天皇擁護の条件であった。「沖縄の独立がなければわが国の独立も無い」と何故日本政府は、日本の人々は言えなかったのか。人間の尊厳による価値ではなく、日本の国の都合で沖縄は切り捨てられた。日本国民の体質に疑問を覚える。沖縄を犠牲にして、独立を喜んでいるような日本という国をもっと知るべきであったと痛感している。
第四次琉球処分
1972年:沖縄返還 沖縄返還に際しての沖縄県民の願いは、次の通りであった。平和憲法への復帰、基地の返還、自衛隊配備への反対、基本的人権の尊重、自治権の確立、県民本位による経済の確立。
 しかし、現実的には日米安全保障条約(軍事同盟としか言えない)の体制下に沖縄が置かれることになり、沖縄に米軍基地が置かれることが条件付けられた。辺野古岬の碑(1972.5.15)には「平和への願いは叶えられず」とある。「裏切られた」という表現である。
3. 沖縄差別の強烈な現われとしての在沖米軍基地
米国の認識、「沖縄に基地を作ったつもりはない。沖縄が基地である。」これを容認している日本である。
B 基地の数の対比
 日本総人口1億3000万人、沖縄130万人  99:1
 単純に99人に基地25、1人に基地75の割合、ということになる。基地の負担割合は日本本土に比べ沖縄が圧倒的に多い。戦後66年経ったが、正義に適っているだろか。「沖縄と共に生きる」という精神が生きているのか疑問である。無意識に沖縄は差別されている。
4. 加害者としての沖縄の苦痛
朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争いずれの戦争の際には沖縄の基地から戦闘機が発着した。沖縄の人々は基地の存在に反対している。しかし、「人殺し」のお手伝いをしてしまっている。沖縄の大きな苦痛である。
5. 米軍基地が無くなれば沖縄は経済的に成立たなくなるのではないかとの「本土」在住日本人からの問いについて。
基地は生産しない。基地の全面返還後には跡地は生産価値のある再利用が出来る。沖縄経済は倍増する。原発で潤ってはならない。(本稿筆者である私は琉球王朝時代から養って来た、「沖縄の風」、沖縄の民力がこの講演から感じ取れた。この「本土の問い」は余りにも失礼である。)
6. 普天間基地問題に見る沖縄差別
沖縄の人々の基地に対する民意は「県内移設反対」である。しかし、「辺野古」へと国は動いている。しかも、全国都道府県知事はそれぞれの下への「基地移設負担」を拒否している。本土の民意は尊重され、沖縄の民意は尊重されない。これは本土日本国民による、沖縄差別とは言えないか?第5次「琉球処分」にならなければよいが。
日本の米国への隷属の体質はなかなか変わらない。そこで、沖縄は国連に働きかけることにした。
7. 沖縄の反撃
「先住民族会」として、国連に沖縄の現状を訴え、日本政府への対応勧告があったが、前進していない。また、沖縄単独州(一国多制度)と沖縄独立の追及を続けている。

U 沖縄教区から見える日本基督教団
 1.九州教区沖縄支教区をあっさり抹消することが出来た日本基督教団(1946年)
太平洋戦争前、時の政府の意向により、沖縄は5教派、17教会が教団に統合させられた。真の信仰によるものではない。
ところが、1946年(昭和21年)第3回教団総会で、論議もされず沖縄支教区は消えていた。戦争により沖縄が日本国から切り離された為と思うが、沖縄の教会はそれを知らなかった。教団は沖縄の存在を尊重していたのか疑問である。第3次琉球処分(沖縄切捨てによって実現した戦後日本国の独立)と似ている。日本国が沖縄に持っているものを、日本基督教団にも感じる。当該総会で沖縄の代表が「沖縄のことはどうなるんですか」と発言した経緯もある。(筆者私は余りにも沖縄に対する配慮、心が無いと思えてならない!!)
2.戦責告白に誘発されて実現した沖縄キリスト教団との合同(1969年)
   1969年、日本基督教団は戦責告白をし、抹消していた沖縄との合同を実現した。しかし、沖縄キリスト教団の真の思いは理解されていなかった。沖縄の人々と教会が担った痛み、苦しみを自分達の痛みとして受け止められていないと、沖縄の人々には感じられた。
   (筆者、私は思う。琉球王国の誇り、数次に亘る琉球処分の屈辱に対する配慮、沖縄に対する事後の対応方策が不足していたのではないか)
3.「合同のとらえ直しと実質化」
  沖縄では「神様の御心にかなった内容のある合同を」と願い、本土でキャラバンを行なったが、受け入れない教区が多く、「日本合同基督教会」との名称変更を提案したが理解されなかった。「合同のとらえ直しと実質化」に関する議案は5年間教団総会で議題となったが、「合同のとらえ直しと実質化」に関しては2002年10月の教団総会にて、「審議未了廃案」とされてしまった。「継続審議」なら希望があったが「廃案」である。
  沖縄教区では以来「日本基督教団とは距離を置く」との抗議姿勢を貫いて来たが、教団は2010年10月の教団総会にて沖縄宣教連帯金を120万から80万へ減額を決議した。(筆者私は昨年の教団総会を傍聴した。事前に「伝道する日本基督教団の形成のために」と称する冊子が「ある勢力下」の議員の方々には配られていたようである。それには各議案に対する賛成、反対の指示、議長他教団三役、常議員選挙の際の選挙者名の指示がされていた。当該事項は第18号議案であり、その冊子には「原案通り可決しましょう」とあった。多数派工作がされていて何ら沖縄に関する真摯で実質的な議論もされない内に、怒号飛び交う中で冊子の指示通り可決された。教会性も会議制も失った教団の姿があった。)
4.「教団に距離をおく沖縄教区」と議長報告(第68回沖縄教区定期総会2011.5.29−30)
  教団とは私的レベルで、各自の交流が為されている。韓国・台湾等とも交流を持ち続けたい。
5.日本基督教団は重層的な「罪責告白」を求められている。
  「罪責告白」を期待したい。いつ可決されるか関心を持っている。日本基督教団は日本国と同じ体質を持っていると思えてならない。
6.終わりに
  「日米安全保障条約の廃棄」に向けて、新たな国民運動を起こしてもらいたい。もしそれが出来ないならば、日本本土は米軍基地の負担を負って欲しい。「罪責告白」に期待したい。

結 び
  平良修牧師の講演を拝聴する機会が与えられて感謝です。「沖縄」をまだまだ理解しなければならないと痛感しました。余りにも私達は「沖縄」について無理解であったと反省させられた一日でした。これから私達は何を為すべきか?まず「罪責告白」があって然るべきであります。それには対話と交流を深めていくことです。少なくとも、「審議未了廃案」等の暴挙は慎むべきです。「『伝道する日本基督教団の形成のために』と称する冊子」等による言論統制も然りです。極めて教会性、会議制を無視した「愚の骨頂」としか言えません。琉球王朝の豊かさ、沖縄の熱風が充分に感じられる8・15集会でした。
             参加者37教会(含、東京・名古屋・茨城)100名
報告:本間一秀(川口教会牧師、社会委員会委員長)



講師の平良修牧師


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