報告 平和を求める8・15集会




 2012年8月15日大宮教会で行われました「平和を求める8・15集会」において、沖縄教区の金城重明牧師による「強制集団死からキリストに生かされて」との講演をお聞きしました。以下はその内容の概略です。先生は80歳を超えて居られますが、お元気に御自身の凄惨な御体験から「平和」を訴えられました。
 この講演から私達の生きる糧が与えられることを願ってやみません。
                         埼玉地区社会委員会
                              本間一秀

講演「強制集団死からキリストに生かされて」
                         沖縄教区 金城重明牧師

1. 沖縄戦の実態
 米軍の座間味島、慶留間島への上陸は1945年3月26日、渡嘉敷島への上陸は3月27日そして沖縄本島への上陸は年4月1日であった。それからさらに激しい戦争に沖縄は巻き込まれた。
 米軍は50万人余の軍勢が沖縄に派遣した。米軍艦1400隻。それに対して日本軍は9万余、それに防衛隊、学徒隊を含め11万人。沖縄本島は、艦砲射撃や空爆によって原型を失った。6月23日に牛島満司令官と長勇参謀長は自決し、沖縄戦の組織的戦争が終わり実質敗北した。
 1945年(昭和20年)2月の時点で、国の要人が昭和天皇に対して、太平洋戦争の終結を進言したが、「もう一度戦果を挙げてからでなければ」と認めようとはしなかった。この時、その進言を受け入れていれば、沖縄戦における20万人余の犠牲者(沖縄では住民の25%が喪失)は出なかったはずである
 終戦後、沖縄は米軍統治下に置かれた。沖縄は本土復帰を果たした現在でも、独立国でありながら、敗戦後67年間も他国に基地を提供している国は世界戦争史上例がない。日本は平和憲法を持ち、アメリカと「友好国」と言いながらこの状況である。沖縄戦により20万人余の尊い命が失われたが、結局、沖縄戦は本土防衛、天皇制(国体)の為の捨石作戦とされた形であり、玉砕戦であったと言える。

2. 強制集団死の発生
 慶良間3島での、「強制集団死」は日本軍が駐留した島だけで起きた。座間味、慶留間、渡嘉敷の3島での犠牲者は約600名にも上った。日本軍の沖縄に対するキーワードは「軍・官・民、共生共死」。つまり、軍と共に生き死ぬことであった。このことは一般的なスローガンではなかった。しかし、日本軍は「共に生き、共に死ぬ」という考えはなかった。私が赤松海上挺身隊長と会った時は「我々軍隊は慶良間の戦況を本部に伝える為に生き延びなければならない」と言っていた。この証言は、まさにそれを物語っている。私は、やはり日本軍の本当の考え方はここにあったのかと思えた。
 座間味島と慶留間島への上陸と強制集団死は3月26日であった。私の住む渡嘉敷島では3月27日に米軍が上陸、そして日本軍が住民に対し、「北山(にしやま)の日本軍陣地への移動」との避難命令が出された。私は、非戦闘員がなぜ危険な軍隊の近くに移動させられるのか疑問に思ったが、日本軍に対しては絶対的な服従が強要されていたので住民は従った。私たち家族は、村民達と激しい砲弾と豪雨の中、怯えながら移動した。
 翌28日朝、村長の下に終結させられた。隊長による自決命令が防衛隊によって村長に伝えられた。600人から700人の村民の前で、村長は「天皇陛下万歳」と三唱した。その時「死ぬこと」だと分かった。住民に軍から手榴弾が配られた。非戦闘員に武器を渡すことは禁じられていたが、そのことが為されたことは、日本軍が重大な決断を下した証である。集団自決は軍命、すなわち天皇陛下によるものであり、個人的なものではない。
 世界戦争史上類を見ない惨劇、強制集団死が起きた。住民たちは死を覚悟し、殺し合い(殺意無き殺人)が始まりました。私と兄の二人で、母、弟、妹に手をかけました。当時16歳の私は悲痛のあまり号泣しました。そして、生き残った兄と私で死の順番を話し合っている時、1人の少年が「どうせ死ぬのだから米軍に斬り込んで死のう」と話を持ちかけてきました。私達、少年少女数人は「米軍への斬り込み」を覚悟して、惨劇の場を後にした。
 米軍を探し当ても無く歩いていると、最初に日本兵に遭遇して衝撃を受けました。「なぜ自分たちだけがこんな目に」と、日本軍への不信感、怒りが込み上げてきました。さらに、他の多くの生き残りの住民がいる事を知らされて二重の衝撃を受けました。
 米軍に保護され、次第に「強制集団死」異常な心理状態から正常な状態へ解放されることで、内的苦悩は増幅されるばかりでした。

3. 戦後の苦しみからキリスト教信仰に導かれる
 戦後、精神的絶望と死の淵を彷徨っていた時に、引き揚げ者のキリスト者棚原氏と出会い、初めて聖書と讃美歌を目にした。同氏に聖書を読む事を進められ、通読しながら、聖書が不思議な書物だなぁー、と食い入るように読む。罪と救い、生と死、愛と永遠の命、等に目を開かされました。導かれた当初は毎週、棚原氏を囲み勉強会をしていましが、1948年に与那城勇糸満教会牧師が伝道で来島され、それがきっかけで洗礼を決意しました。強制集団死の苦悩から、洗礼と言う人間が生まれ変わる聖なる儀式受け、キリスト者として、人生の第一歩を踏み出す為に島を出ました。キリスト教は、私の戦後の出発点、原点となったのです。

4. モルトマント博士との出会い
  世界的に著名な神学者モルトマン博士が沖縄に招聘されたのは、2003年4月の事であった。モルトマン博士は、「苦しんだのはキリストだけでなく、神もキリストを十字架にかける事によって神も苦しまれた」と明言しています。神が苦しむとの神学思想に深い感銘を受けました。私は強制集団死の苦悩を忘れたいとの内的戦いが生じた時に、それを前向きに受け止める信仰が与えられました。強制集団死を個人の内的問題、過去の出来事として受け止めるのではなく、「自分が今どう生きるのか」と言う課題として考えるようになりました。67年前に強制集団死から生かされた私にとって、平和を現実する事は、残る生涯の最大の課題であります。

5. 私の「沖縄戦・強制集団死」に対する罪責告白
 1945年3月28日の渡嘉敷島での強制集団死体験は、私にとって生き地獄の恐怖と絶望そのものであった。戦後は何十年もその苦悩の虜になったが、主イエス・キリストの罪人の贖いの為の十字架の苦しみによって、その苦悩が信仰的に軽減されることが多かった。私は自身の内的葛藤を、信仰の戦いの問題として、認識するようになった。
 しかし、あの恐るべき強制集団死は、信仰の内面に閉じ込めておくべき出来事ではなくて、戦争という歴史的現実で生起した悲劇だったのである。英語では歴史をhistoryという。しかし、歴史はヒストリア(物語)よりも、ドイツ語のゲシヒテ(Geschichte)即ち「出来事」として強く認識するようになった。
 「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(1967.9.11)に学びつつ、私は、主イエス・キリストの御名によって「沖縄戦・強制集団死」に対する罪責を告白するものである。

 結び
 以上が御講演の内容である。金城先生はあの恐るべき「強制集団死」の心の苦しみを信仰の戦いの問題として認識され、その苦しみを軽減された。
 そこには十字架の主イエス・キリストの深い愛があった。モルトマン博士の神学「希望の神学」との出会いがあった。安らぎを得られたものと思われる。
 しかし、「あの恐るべき強制集団死は、信仰の内面に閉じ込めておくべき出来事ではなく」との思いで、牧師として、神学者、神学教師として、悩みながらもご自身を証しされて来られた。家永三郎氏の教科書裁判の法廷においても、「集団自決」の証人として立たれた。
 沖縄戦の「集団自決」の生き残り、生き証人として、その体験の苦悩と重みを負いながら、生き続け、平和の証人として県内外の講演や研修会のご奉仕をされて来られた。
「あの日に死んだ人達のため、あのような悲劇を絶対に繰り返さないためにも、『集団自決』の真相を一生語り続けて行こうと決心した」と著書、「集団自決を心に刻んで」に記されている。
 金城先生の御講演をお聞きした今、私達は何を為すべきか?当然「罪責告白」があって然るべきである。沖縄との合同のとらえ直し、基地問題。真摯に取り組みたいものである。
 出席46教会110名


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