2011年11月のみことば


金銀はわたしには無い

 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
                    (使徒言行録3章1節〜10節)

 ペトロとヨハネはいつものようにエルサレムにある神殿の境内に入ろうとしていると「生まれながら足の不自由な男」が運ばれてきました。この男は神殿への入り口の「美しい門」と呼ばれる門の所に、品物のように、毎日置かれていたました。彼はペトロとヨハネを見て、施しを乞いました。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい。」と言いました。その男は何かもらえると期待して、二人を見つめていると、ペトロは「わたしには金や銀は無いが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。そして、右手を取って彼を立ち上がらせました。これがペテロの答えでした。彼は足の不自由な人を救うために必重なのは、金貨や銀貨ではないと考えていました。お金は今日与えても明日には無くなるものだからです。

 主イエスは「この水を飲む者は誰でもまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と言われました。本当に、人を立ち上がらせ、その生活を支えるものは金銭ではなく、永遠の命に至る水、それはいくら汲んでも尽きることのない無限の恵みの水です。それこそ、わたしたちの望みであると主イエスは言われます。

 主イエスはわたしたちと共においでになり、命を与えてくださるのです。物質的なもの、金銭的なものは、主イエスと共に生きるとき、必ずその必要に応じて備えられます。ペトロが「金銀はわたしには無い!と言ったとき、彼は何が人を救い、何が人生を支えてくれるものであるかをよく知っていました。「彼は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあるように、神の愛は主イエスを通して、人間に対して明らかになったのです。

 ところが人間はこの賜物を受けようとしないで、無価値な物資的な物に熱中して他を顧みないのです。しかし、人間は耳目を開かれて主イエスを受け入れるようになれば、その賜物の価値がいかに無限であるかを知らされ、他のものを顧みなくなります。だからこそペトロは「わたしが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と大胆に告げることができたのです。それはイエス・キリストだけに信頼して歩きなさい、ということであります。主イエスの名には聖霊の力がこもっています。それを唱えると主イエスが持っておられる大きな聖霊のカが働きます。このイエス・キリストの名によって病が癒され、罪が赦されるのです。そして、永遠の命を約束されるのです。
内田 武士教師 (隠退教師)
(うちだ たけし)




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