2012年3月のみことば


命を与える主イエスの愛

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
                    (ルカによる福音書7章11節〜17節)

 聖書の舞台は、イスラエルの北に位置するガリラヤ地方の町カファルナウムから30数q南に行ったところの町ナインにイエスと弟子たちは旅したときの出来事でした。
 ナインの町に向かって南西へ下ってくるイエスの一行と、ナインから北東に向かう葬列とがナインの町の門のところではち合わせすることになったのです。

 この福音書を書いたルカはイエスを「主(しゅ)」と呼び表すのが特徴でありまして、15回程記されています。「主」とは、「あるじ」という漢字ですが、聖書においては、1つには、人間を救い、助け、祝福し、契約を結んで恵みを与える神を表しますし、さらには、その神の権威を持っておられるメシヤ(救い主という意味)を表しています。そこから、ルカでは「主」に世界の救い主であるとの意味が込めて使われているのです。

 ナインの町の葬列で泣き悲しんでいたでしょう、かつて夫を失い、ここで一人息子を失った女性の姿に、世界の主であると同時に、その女性の「主」でもあるイエスは、「憐れに思って、もう泣かなくてもよい」と言われました。「憐れに思う」という言葉のもともとの意味は「はらわたを揺り動かすほどの激しい共感」を表すものです。

 イエスははらわたが震えるほど深く悲しみを共感して、慰めの言葉を女性にかけ、葬列に近づいて、人々に担がれていた棺に手を触れられました。そして、主は驚くべきことをこの母親になさったというのであります。「棺に触れる」ことは、聖書の民数記には、「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる(けがれる)。彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。」(民数記19:11-13)とあるのですが、人々が嫌い避けようとする「汚れ」ですが、主であるイエスはその「汚れ」をも身に引き受けてくださったというのです。

 そして、イエスは即座に、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と死者に命じられました。若者は起き上がってものを言い始めたのです。「主」は、死をも支配なさるお方なのです。
 この出来事を間近で見た人々は、二つの証言をしています。それらの証言に傾聴すべきメッセージが込められています。

 一つの「大預言者が我々の間に現れた」ことは、旧約聖書の列王記に記されている、エリヤ、エリシャのような大預言者がかつてした「死者の復活」と同じことがここに再現されたことを思って、「大預言者が我々の間に現れた」と言ったことです。イエスという方は、神の権威を帯びて、神に遣わされた「主−メシア」であること。

 もう一つの「神はその民を心にかけてくださった」ことも、旧約聖書の出エジプト記に記されている、エジプトから救い出された出来事を思い起こしたことでした。エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神は憐れに思って、モーセという人を指導者に立てられるときに、「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出エジプト記2:24、25)
 「出エジプト」の出来事は、イエスが登場する1200年も前のことでしたが、「神はその民を心にかけてくださった」という、イスラエルの民に対する神の愛は「神との契約」として結ばれ、イスラエルの人々はイエスの時代にもこれを堅く保ち続けていたのです。

 ルカによる福音書は紀元60年頃に記されたといわれますが、まさに「第二の出エジプト」と呼ぶにふさわしい、メシア・イエスの来臨のできごとを、ルカはユダヤ全土だけでなく、イスラエルの周りの異邦の世界にまで告げ知せようとしたのであります。

 あるべき状態から外れてしまっているわたしたちの状態を、聖書は「罪の奴隷に陥っている」と、その本質を明らかにすると共に、あるべき姿に戻してくださるために、束縛からの解放を主だけがわたしたちに与えることがお出来なさるのです。
 人々に購い(救い)の道を開いてくださった主イエスの愛こそ、実に「神はその民を心にかけてくださった」という、旧約聖書の契約の成就であり、全世界への福音(ゴスペル−良い知らせ)ではありませんか!

【祈り】
 今日この説教をお読みくださったお一人おひとりに、主イエス・キリストの恵みと祝福が聖霊の助けによって注がれますようにお祈りいたします。アーメン
渡辺久純教師 (桶川伝道所 協力教師)
(わたなべ ひさずみ)




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