2012年5月のみことば


復活のキリストと出会って

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
                    (ヨハネによる福音書20章24節〜28節)

 イエスさまが十字架にかけられて亡くなり、葬られてから3日目、週の初めの朝のこと。
 生前の主イエスと親しい関係あったマグダラのマリアは、まだ暗いうちに主イエスが葬られた墓に出かけました。亡くなった主にお別れをして、心ゆくまで嘆きたい、と思っていたはずです。
 ところがそこへ行ってみると墓のふたになっている石が取りのけられ、肝心の遺体がありません。彼女は弟子たちのところに走り、そのことを告げます。数人の弟子たちが来て、確かめると主を包んでいた亜麻布があるばかりでした。

 弟子が帰って行った後も、マリアは空っぽになった主のお墓の前にとどまり、落胆し、泣いていました。そんなマリアに白い衣を着た天使が「なぜ泣いているのか」と問いかけます。
 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いながらマリアは振り向きます。そこに立っていた方は実はイエスさまでしたが、彼女は園丁だと思ったと書かれています。なぜ分からなかったのでしょう。主を探していたマリアなのに。
 でも、マリアは遺体を探していたのです。それは常識的には全く当然のことかもしれません。しかし主はよみがえって、そこに立っておられるのです。そして、主は「マリア」と呼びかけて下さいます。その生き生きとした声が、イエス様は亡くなったという思い込み、心のとらわれから彼女を解放します。自由な心を得たマリアは復活した主のお姿に出会うことになります。

 さて、マリアによって主が復活されたことを知らされた弟子たちはどうしたでしょうか。彼らはその夕方、なお隠れるように家の戸に鍵をかけています。
 数日前のイエスさまのように捕らえられるのではないかと怖れていました。そして、墓に遺体がないとなれば彼らが盗んだと疑われるということをも怖れていたでしょう。そしてまた、主が捕らえられた時には逃げ出し、主を否定し、離れてしまったことを思う時、弟子たちは主ご自身に対する怖れをも感じていたと考えることができるでしょう。
 おそらく、幾重にも重なる怖れの中で、彼らは閉じこもっていたのです。
 そんな彼らのところに主は、鍵がかかっていたにもかかわらず、入ってこられます。
 「あなた方に平和があるように(シャローム)、怖れることはない」と、主は彼らの真ん中に進み出て平安をお告げになります。これが弟子たちと復活の主との出会いです。

 弟子の一人のトマスはその日、その家にいなかったために、ほかの弟子たちが主に出会ったという証言を信じられません。主が十字架にかけられたときの傷跡に触れてみなければ信じないと言うのです。そんなトマスにも八日後、(次の週の初めの日)復活の主はおいでになりました。そして、傷跡に指を当てて見るようにと言って下さいます。主ご自身がトマスの疑いを取り除いて言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。
 トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。

 復活の主イエスは、主の方から、一人ひとりの心の状況を受け止めて、その人、その人にわかるように語りかけてくださいます。
 
 私自身も、洗礼を受ける前にいちばんひっかかっていたのは、主の復活を信じられないということでした。そのことは解決しないままでしたが、私は洗礼を受けました。
 それからだいぶ後になって、自分の進路について先行きが見えない不安にとらわれ、信仰にも行き詰まりを感じる時期がありました。教会にも行かなくなりました。

 そして、そんな息苦しさから逃げるように、私はしばらく旅に出ました。もう、神様のことも教会のことも忘れてしまおうと考えていたように思います。重苦しい思いの旅先で、ある喫茶店に入りました。ごく普通の喫茶店でした。珈琲を頼み、ひと息ついてテーブルを何気なくみると、そこには「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と聖書の言葉。そして教会の集会案内が挟み込まれていたのです。

 大きな衝撃を感じました。私は神様を見失っていたけれども、神様は私を忘れてはおられない。背を向けている私にもわかるように、主は声をかけてくださったのです。やがて私はその案内にあった教会を訪れ、牧師に話を聞いて頂くことによって次の歩みを始めることができるようになりました。
 その時から、観念的にしか信仰を捉えることのできなかった私にも、生きて働きかけてくださる復活の主がわかるようになりました。

 復活の主はマリアの名前を呼んでくださったように、あなたの名まえを呼んでくださいます。
あの時の弟子たちのように、あなたが不安でいっぱいの時に、部屋に入って来て「わたしは共にいる、平和があるように」と宣言してくださいます。
 そしてトマスのように疑いに凝り固まっているときにも「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とその傷を示して、私たちに近寄ってきてくださいます。

 毎週日曜日に教会で語られる聖書のみことばは、復活の主からあなたへの語りかけです。
 さあ、心を開いて新しい命をいただきましょう。

追記:私の古くからの友人が蕨市で素敵なカフェ『五つのパンと二匹の魚』を始めました。そこでもきっとイエス様との素敵な出会いがあることでしょう。
(TEL048−445−1288)
小川教会 長尾邦弘牧師
(ながお くにひろ)




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