2012年6月のみことば |
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章16〜20節) |
マタイによる福音書によりますと、復活のイエスに出会った11人の弟子は、イエスから、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(19節)と命じられたことが記されています。イエスを裏切ったユダを除く11人の弟子たちは、イエスが十字架につけられて、無残な死を遂げられた後、不安と将来に対する希望を失って、失望落胆していたことでしょう。その弟子たちにとって、このイエスの命令はとても担いきれないほどの大きな重荷だったのではないかと思います。その重責に押しつぶされるような恐ろしい思いをしたのでないでしょうか。たった11人。しかもこれからどう生きていこうかと不安に思っている弟子たちだったでしょうから、とても担いきれるとは思えない命令だったでしょう。 しかし、主イエスはそういう弟子たちに対して、ただ、それを命じられただけではなく、すぐその後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と付け加えられました。マタイはその言葉をもってこの福音書を締めくくっています。 わたしたちは信仰生活において、「きょうもまた、神さまに従う生活を送らせてください」という思いを持って一日を始めます。けれども、一日が終わってみると、自分の無力さを思い、自己中心の生活を送っていることに気づかされて、自分にがっかりするわけです。わたしはそういう時、この「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束と、1章23節の「インマヌエル」(神はわれらと共におられる)を思い出すのです。 わたしは1989年(24年前)に開拓伝道を始めました。その時はまだわたしは牧師ではなく、信徒の身分でしたが、自分の町に教会を建てたいという思いから保育園だった園舎の一室を借りて、開拓伝道を始めました。教会堂もなく、牧師館もなく、牧師もいない小さな集まりでした。 2006年12月に、西武新宿線の新狭山駅から2,3分のところに教会堂を建てることが出来ました。最初は何とか牧師を招聘(しょうへい)したいと願っていましたが、牧師館がないと牧師を招聘することが出来ないので、途中から教会堂と牧師館を建てることを先にすることにしたのです。そして、開拓伝道を始めて8年後に献身し、牧師になりました。 2003年に新狭山駅そばに70坪の土地を買ったとき1,200万円の借金がありました。その時、信徒は12人でした。その土地は建築条件付でしたから、どうしてもすぐに教会堂を建てなければなりませんでした。それで、わたしは不動産会社に3年待っていただくことにしました。3年で5,000万円が準備できるとは思えませんでしたが、祈りのうちに3年あれば何とかなるとの確信が与えられたからです。 3年後に教会堂を建てると言った時、多くの人はそれでも無理だと思ったようです。自分たちの力だけを見ていると不可能なことですが、主の教会を建てるように示されたのですから、必ず実現すると希望をもって進めることができたのです。「いつもあなたがたと共にいる。」と約束される主が、必ず建てさせてくださるとの確信があったからです。主のご命令が与えられるとき、いつでもそれと同時に、「いつもあなたがたと共にいる。」という約束が与えられているのです。殊に28章のこの約束は、主イエスの十字架と復活の後に「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい‐‐‐‐‐‐‐」(19節)という命令があり、すぐその後に「いつもあなたがたと共にいる。」という約束が与えられているのです。そのことに目を向けることが大切です。 わたしたちの毎日の生活は、神さまからなすべきことを聞きながら、従い得ない自分であることや気持ちがあっても自分の無力さに失望してしまうのです。しかし、そのように気落ちしながら日々を送るしかないというように考えるのは、自分の力だけを見ているからなのです。神を見上げていかなければすべてが失望に終わってしまいます。神からなすべきことを示されるときには、すぐそのあとに、いつでも「わたしはあなたがたと共にいる。」という約束が与えられているのです。 さて、この約束は、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる。」ですが、「世の終わりまで」というのは、「いつまで」のことを言っているのでしょうか。この世界が終わってしまうとか、地球が滅びるときまでということなのでしょうか。 マタイが伝える「世の終わりまで」というのは、「世が完成するときまで」という意味ではないかと思います。神が世界を造られたとき、「極めてよかった。」(創世記1章)と満足されました。それゆえ、神が「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる。」といわれたこの約束は、神が「すべてを完成されるときまで」ということだと思います。 この約束を聞いたとき、11人の弟子たちは一番頼りない状態でした。自分の先生が十字架につけられてしまい、さらに、仲間の一人が大変な裏切りをしてしまって、みじめな思いでいたことでしょう。そういうときに、この命令と約束の言葉を聞いたわけです。しかも、「世の終わりまで」と。それは復活の主が「この世に勝利し、世の完成のときまで」、「あなたがたと共にいる」と約束されたのです。このときから今日に至るまで、キリストを信じる者がこの言葉に励まされ、希望を持って福音を信じて来たのです。 今も、主はわたしたちと共にいてくださいます。それがわたしたちに与えられた約束です。だからわたしたちも信じ、勇気をもって、信仰生活をすすめていきましょう。 わたしたちの人生には悩みがあり、次々と天災が起こり、人間の自己中心的な働きがわたしたちを苦しめ、失望落胆することが多くあります。しかし、わたしたちは、この11人の弟子たちほどには失望落胆してはいないと思います。弟子たちも信仰をもって新しい生活をすることができたのです。それゆえ、困難な中にあっても、わたしたちも主が共にいてくださることを信じて歩みましょう。 最後に、エレミヤ書の1章8節と12節の言葉を読みたいと思います。 「彼らを恐れるな。 わたしが共にいて、 必ず救い出す。」と主は言われた(8節) 主はわたしに言われた。 「あなたの見るとおりだ。 わたしはわたしの言葉をなし遂げようと 見張っている。」(12節) 8節の言葉はマタイ福音書28章20節の言葉を裏付ける言葉です。わたしたちは主に救い出されたのです。ただ主イエス・キリストを信じて救われたのです。それはいつでも、主はわたしたちを救ってくださるということです。そして、エレミヤに一つの幻を見せて、主なる神が、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。」と仰せになったのです。主なる神が、ご自分の言ったことを本当に完成させるために、それを本当に行うために、ご自分で見張っていると言われるのです。「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる。」ということが、どんなに力強い背景をもっている言葉であるかを知らされます。 わたしたちはこの世にあっては、困難なことや、失望することの多い人生ですが、主の約束がどんなに確かで、力強いものであるかを御言葉によって知ることが出来ます。主がその約束の実現のために、絶えず見張っていてくださることを信じて生きようではありませんか。 |
狭山教会 森 淑子牧師 (もり としこ) |
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