2012年7月のみことば


光の中を歩く

 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
                    (ヨハネによる福音書8章12〜20節)

 ヨハネによる福音書のこの場面は、たいへんな緊張の中にあります。ファリサイ派の人々が登場していますが、彼らはイエスさまに敵意を持ち、殺意を持って取り囲んでいます。エルサレムにおけるイエスさまの姿は、ヨハネによる福音書では最初に2章で見ることができます。そこにはイエスさまのことについて、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」と書かれています。それは人々にとって、自分の常識や日常を覆されるような経験でした。多くの人がイエスさまに注目するようになり、従う者たちも次々現れました。しかしまた、怒り、反目するようになった人も多数現れ、ファリサイ派の人々はその一部でした。

 イエスさまが次にエルサレムに登場されるのは5章で、そこに書かれているのは38年間も病気が治らず苦しみ続けてきた人がベトザタの池におり、その人をいやされたという感動的な出来事です。しかしその日は安息日で、律法では様々なことが「してはならない」と規定されている日でした。イエスさまがいやしの際に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われたことが問題とされ、イエスさまに対する迫害が始まりました。敬虔な信仰者で、律法を大切に守って生活していたファリサイ派の人々は、その中心的役割を担ったと思われます。

 その後7章の祭の場面では、イエスさまを巡って人々は混乱し、興奮し、騒いでいて、ついにファリサイ派の人々は祭司長たちと一緒になって、イエスさまを捕らえるために下役たちを遣わすのです。しかしそれは失敗し、下役たちから思いがけないことを言われてしまいます。「今まで、あの人のように話した人はいません」と。面と向かって「あなたとは違う」と言われたわけですから、彼らのイエスさまに対する敵意は増大し、怒りが暴走していきます。

 祭開けの朝、多くの人が静かにイエスさまの教えを聞いていたところに、ファリサイ派の人々は大騒ぎしながらやって来ます。彼らは姦通の現場で捕らえられた女の人を引きずり出してきて、「この女をどうすべきか」とイエスさまに問い詰めました。周りの人はイエスさまが女の人を赦すことを期待していましたが、それでは律法を守らないことになってしまいます。ファリサイ派の人々は、「これで追い詰めた、自分にとって都合の悪いこの男を捕らえて、排除することができる」と考えていました。

 ファリサイ派の人々のこのような姿を思い描くとき、「なぜ、こんなに怒り続けるのか、執拗に追いかけ回すのか」と思ってしまいます。イエスさまの登場によって生じた新しい事態を受け入れることができず、それに振り回されて、ただぶつかっていくだけの彼ら。自分には勝ち目のない状況に、画策し、暴力によって都合の悪いものを排除しようとするやり方。彼らは悪人の集団ではありません。信仰を持ち、しかも生活のすべてをもって信仰を貫こうとしてきた人々です。「信仰のため、正義のため」と言って行動している人たちです。それなのに、なぜ。

 2012年の半分が過ぎて、今年の自分の生活を振り返る機会がありました。新年を迎えたときにたてた「今年の目標」の一つは、「教会でも、平日の仕事でも、プライベートでも、やらなければならないことをためこまない」でした。それは元々ためこむ傾向を持っている自分を新しくする決意です。しかし残念ながら、それはまだ達成できていません。やりかけのもの、手つかずのものが、周りに山盛りになっています。自分なりの言い訳があるのです。すべてをやり終えるには時間が不足しているように思われること、ようやく一つを終わらせても二つが増えるような現実があること等。また年度末にはパソコンが突然ダウンして、たくさんのデータを失いました。しばらく前には自家用車が壊れましたが、こちらも突然の出来事でした。最近、冷蔵庫もおかしくなってきました。そんなこんなが重なってうまくいかないのだという言い訳。

 そんな自分に、イエスさまのみ言葉が問いかけとなり、また答えになりました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 言い訳をしている自分はファリサイ派の人々と同じです。彼らのように怒ったり、暴力を用いることはないと思っているけれど、自分の外に原因を見つけてバタバタし、それでも自分が変わっていくようなことにはならず、同じことを繰り返してしまうのです。「原因はあなたの外にあるのではない」とイエスさまは教えています。

 わたしたちを取り囲む状況にはたいへん厳しいものがあり、わたしたちはその影響を受けることなしに生きることはできません。しかしまた、周囲のこととは別に自分がどのようなものであるかが問われているのです。「一人で暗闇の中にとどまっているのではないか」と。暗闇の中でわたしたちは不安になります。どうしたらよいか分からなくなってしまう暗闇の中で、自分を守るためには盾を持つほうが安全に思われたり、武器を持ったほうが安心できると考えてしまいます。

 そうやって自分は変わらないまま周囲を変えようとするわたし、時には周囲を傷つけてまでも自分の正義を貫こうとするわたしが、暗闇の中にいます。イエスさまはそこに来てくださいました。一人ひとりを暗闇から光の中へと招き、導き出すため、救い出すために、イエスさまはわたしたちのところにも来てくださいました。世の光であるイエスさまを信じるわたしたちは、それぞれ命の光を持って生きていきます。周りの闇が深い今こそ、わたしたちが光を輝かせていることが大切になるのです。
シャロンのばら教会 鈴木証一牧師
(すずき まさかず)




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