2012年8月のみことば


互いに愛すること

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
                    (ヨハネによる福音書15章12〜17節)

 人は存在の悩みというものを持っています。
 例えば、こんな自分が生きていていいのだろうか、という問いです。この問いは、たとえ勉強や仕事が出来たとしても、また出来なくても、たとえ他者の受け入れが大きくても小さくても、持ってしまう悩みです。たとえ、法律に触れることをしていなくても思うものです。自分の存在そのものに疑問を持つのです。

 反面、生きていて良いと思える実感は、人に愛されている時、愛に包まれていると思える時です。さらに、人を愛していくことも自分の存在の肯定となります。
 しかし、愛に対する疑問も付きまといます。例えば、身近な家族を思い浮かべると、本当に自分は愛されているのだろうか、或いは、もしかすると自分は家族を愛していないのではないかと、自分を混乱させる出来事も生じます。それは、自分の存在そのものを動揺させます。また信じたい気持ちと傷つきたくない気持ちが合わさり、自分で自分を悲しくも貶(おとし)めます。どうかすると、このまま生きていてはいけないのかもしれない、と落ち込みます。友情もまた同じです。したがって、この悩みの解決を家族や友達に求めるのは厳しいと言えます。

 では、この悩みの手掛かりはどこにあるのでしょうか。
 ヨハネによる福音書15章12節と17節は、「互いに愛し合いなさい」と勧めています。この言葉を、イエス様の「掟」とか「命令」として受け止めるのはヨハネと名前のつく文書の特徴です。
 この「互いに愛し合いなさい」のモデルは、イエス様です。もし人を愛する時、家族や友達、特定の誰かのために、持てる愛情を精一杯尽くそうと思う時、どのようなことを行うでしょうか。恐らく、家族や友達や特定の誰かに自分の心を形にして愛として表現するでしょう。

 イエス様がされた人を愛する行いもそうであったのです。イエス様の愛は、十字架において示されました。十字架で示された人々への愛の形は、御自分の命を捨てる御心でした。友のために自分の命を捨てることを現した御心です。この世のすべての人を、イエス様は友とされます。たとえ自分を裏切った人、侮辱した人、無視した人、殺すような人でさえもイエス様の友でした。友の裏切り、侮辱、無関心、殺意を知りながら、イエス様は何故愛することができたのでしょう。

 イエス様は、神の子としてこの世に誕生しました。神さまと等しいお方でありながら、王さまや主人のように生きることはなさいませんでした。この世の人々を友として愛しました。ですから何もかも秘密にすることなく、たとえ誤解や無理解が生じても、御自身の事についてすべて話されました。生活も人々と共にしました。誰もが嫌がる人々とも親しく会話されました。家にも訪ねました。そして最後は友の前で御自分をさらけ出される惨めな死に方をさせられました。

 しかし、イエス様の一番苦しく、辛かったことは何であったでしょうか。神の子として認められなかったことでしょうか。惨めな死に方であったことでしょうか。そうではないように思います。それよりも裏切る友、侮辱する友、無関心である友、殺意を抱く友を知ることの方が最も苦しく、辛いことだったろうと思うのです。
 そうであっても、この友のためにイエス様は命を捨てられました。それは友が裏切っても、侮辱しても、無関心であっても、殺意を抱いても、友には相応の報いや罰としての死を求める以上に、愛情深く友の生きていくことを、どうあっても生きることを望み、友が死から救われる贖(あがな)いの道を備えて御自分の命を捨てたのです。

 私ならどうするか、と考えます。もし愛情や友情を感じている身近な人や友に裏切られ、侮辱され、無関心で、殺意を抱かれるなら「互いに愛し合いなさい」を惜しまず行い得るか、と問います。答えは、「私にはとても無理だ」ということです。自分の意志では有り得ないことです。非常に難しいことです。
 ですから、「互いに愛し合う」ことを本気で考えるならば、友のために命を捨てられたイエス様がお手本になります。そして「互いに愛し合いなさい」のお勧めを「掟」や「命令」と受け止めたヨハネ福音書の理解に注目するのです。そうすると、自力では「互いに愛し合う」ことの難しさを無理なこととして、後ずさりをする私であっても、命さえ捨てる愛情深いイエス様の「掟」や「命令」と受け止めることで、後押しされるからです。

 人を愛することをためらう時、人を深く大きく愛したイエス様の十字架という愛の形を思い起こしたい。何故なら、そのときに、イエス様に精一杯愛されている私を発見するからです。愛されていることで自分を肯定し、人を愛することで自分を肯定していけることに気づくからです。そう、こういう自分でも「生きていて良い自分なのだ」と実感できるからです。こうして、「掟」や「命令」に導かれて「互いに愛し合う」ことに近づいていくことができるのでしょう。互いに愛することで始まる新しい関係の基礎は、イエス様が命を捨てられた「友への愛」であります。
 この私への愛であります。

祈祷
 天の父なる神さま、お名前を讃(たた)えます。
 「互いに愛し合いなさい」と勧められても、先ず愛されることを私たちは望みます。なお愛される仕方をも望みます。このような私たちに御子イエス・キリストの命をかけてまで貫き通して下さる愛が注がれていますことを有難うございます。どうぞ、あなたが求める「互いに愛し合いなさい」に近づけるよう、いつも助け導いてください。
 とりわけ、この8月は、私たち日本の歴史において先の痛ましい戦争の傷を深く負っていることを覚えます。そして、戦争ばかりでなく、東北の大震災、各地の災害で傷ついている方々を覚えます。全ての痛み悲しみを包み込む神さまの愛で日本をまた世界を癒し慰めてください。そして互いに折り合い、支え合う私たちでありますよう常に励まし力づけてください。
 救い主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
鴻巣教会 塚本洋子牧師
(つかもと ようこ)




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