2012年9月のみことば


神の愛にふれる

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
                    (ヨハネによる福音書8章3節〜11節)

 この物語は福音書のなかでもよく知られている箇所です。しかし、姦通をした女という話の性格上、この話がヨハネによる福音書に付け加えられたのは4世紀頃からだと言われています。しかし、やはり姦通を犯した女が裁かれることなく釈放された話をこのまま聖書に残しておいてよいのだろうかということで、16世紀頃ローマ教会で、この物語を残すか否かでその賛否を問うための投票が行なわれ、結局残すことになって、その後、紆余曲折があったそうですが、今日に到っているということになっているわけです。

 この物語は、倫理規範の問題はあるかもしれませんが、それを越えて「私どもの罪の深さ」や「罪を赦す神の愛の深さ」、あるいは「神の愛にふれるとはどういうことか」、などについてシンプルに描かれている貴重な箇所だと思います。

 まずは聖書の流れに沿って見ていきます。
 時は仮庵祭。祭司長やファリサイ派の人々がイエスさまを捕らえようと下役を遣わした。しかし、イエスさまに群衆の支持が集まっているので容易に捕らえることができない。そんな状況の中で3節から11節の出来事になるわけですが、神殿の境内でイ工スさまが、朝早く集まった人たちに教えていた時のことです。律法学者やファリサイ派の人たちが−人の女を連れて来たのです。彼らはイエスさまに言いました。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。
 本来、このような場合、法廷で裁けば済むことでしたから、そうしなかったのは何か意図があったと考えられます。すなわち、イエスさまを試したのです。と言うのも、この質問にたいして、「石打ちにせよ」と答えても、「石打ちにしてはならない」と答えてもイエスさまに不利な状況となるのです。

 では、もし「石打ちにせよ」と答えればどうなるか。
 そう答えれば、ローマの権力に反抗する者として、つまり反逆罪としてイエスさまはローマ政府に訴えられるのです。なぜなら、ユダヤ人は勝手に死刑を執行できないからです。
 では次に、もし「石打ちにしてはならない」と答えればどうなるか。
 民衆はイエスさまから離れます。モーセの律法を守らない者はメシアではないからです。それまで民衆は、イエスさまを旧約が預言しているメシアだと信じていました。では、それが否定されたらどうなるでしょう。律法を実行しないメシアはもうメシアではないということで民衆はイエスさまから離れていくのです。

 どちらに答えてもイエスさまにとって不利な状況となるわけです。多分、彼らは最初からイエスさまをおとしいれるために、彼女をうまいこと捕まえて連れてきたのでしょう。律法違反なら自分たちの手で裁けばよかったのです。何もわざわざイエスさまの所に連れてくる必要などなかったはずですから、彼らに意図があったことは明白です。
 イエスさまは、ここで、どうされたのか。
 一見不可解な行動をとられた。かがみこんで指で地面に何か書き始められたのです。

 これをどう埋解したらいいのか。
 いくつかの説があります。
 一つ目。どうしていいのか途方に暮れているのだと言う説。確かに私達ならいかにもありそうなことかもしれませんが、それをイエスさまにあてはめるのは少々安易な気がしますので、この説はどうかなと思います。
 二つ目。旧約の神の言葉を思い起し、それを地面に書いていたのだとする。旧約のどの箇所かと言いますと、工レミヤ書17章13節だと。こう書かれています。
 「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」と。
 律法学者やファリサイ派の人達がまるでエレミヤ書に出てくる「主を捨てる者」そのものであることを思い、イエスさまは神の言葉を文字にしないではいられなかった。
 確かに、彼女がやったことは神のおきてを無視しています。しかしイエスさまは問うのです。それなら律法学者やファリサイ派の人達よ、あなた達に神を敬う心があるのかと。あなた達は主なる神を捨てていないのかと。
 と言うことで、工レミヤ書17章13節を書いていたと言うのが二つ目の説。
 ありうることかも知れませんが推測に留まります。
 三つ目は、この、神を捨てて陰府に行く者達の名前を書いていたのだとする説。二つ目の説とのつながりから発想されたのかも知れません。神を見捨てる者は陰府に落ちる。だからイエスさまは彼等の名前を書き加えているのだと。
 以上、三つの説をとりあげましたが、何れにしましても推測の域をでませんが、イエスさまがかがみこんで地面に何か書き始めたことは私達に不可解さを与えることですね。どんな理由があってのことか興味は残ります。でもそれはここまでとしまして次に進みます。

 7節、律法学者やファリサイ派の者達がしつこく聞くので、イエスさまは立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言い、そして再び身をかがめて地面に何か書き続けたのでありました。
 そうしますと、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスさまお一人と、真ん中にいた女が残った」のでありました。
 イエスさまは「石を投げてもよい」と言っているのです。
 ただし、「罪のない者でなければならない」と条件をつけられたのです。
 そうしましたら、年長者から一人減り二人減りして、とうとう、イエスさまとその女だけになりました。
 ふつう、年長者ほど実直に律法を守っているように見えるものです。しかし、実際のところ、歳を取れば取るほど、カネや地位を利用して巧妙にふるまい、女性に対しても男の欲望を満たそうとするかもしれません。年長者ほど今まで白分がどんなに悪いことをしてきたかをよく知っていますから、結局はそこにいたたまれなくなり、逃げ出さざるをえなかったのでありました。
 こうして、イエスさまと女だけになった時、イエスさまは彼女に言いました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか」と。そうしますと彼女が「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」とイエスさまは答えられました。

 さて、ヨハネによる福音書のこの「姦通を犯した女」の物語を聖書の順序を追って見てきたわけですが、ここから「イエスさまの神の愛」について強く印象づけられましたので、そのことについて語っておわりと致します。
 姦通を犯した女は罰せられねばならなかった(申命記22章20〜24節)。この場合、石打ちの刑です。彼女を立たせ、離れた所から大勢の人が石を投げ付けて死に到らしめるのです。実質的な死刑です。
 しかし、この時、イエスさまは、もし投げるなら「罪を犯したことのない者が…投げなさい」と条件をつけました。
 イエスさまの出した条件は非常に厳しいものでした。
 どう厳しいのか。
 イエスさまが言う罪というのは、心の中で思っただけで犯したことになるのです。そのことは例えば「山上の説教」で残されています。「あんな奴、いなくなればいい」と思っただけで、殺人の罪を犯したことになるのです。「あいつのあの土地がほしい」と思っただけで、盗んだことになるのです。ですから、みだらな思いをももって女を見る者は、すでに姦通の罪を犯しているのです(マタイによる福音書5章28節)。

 もちろん、その罪は現実的で具体的な罪を含みますが、イエスさまの言葉を聞いたユダヤ人たちは、心の中で思っただけで罪になると言うことも承知していたのです。なぜなら、「十戒の第十番目の戒め(出エジプト記20章17節)で教育されてきたからです。この戒めは欲するだけで罪になることを教えているからです。ですから、ユダヤ人たちは、イエスさまの言うことが確実に分かった。情欲をもって女を見ただけで罪になることを。
 そうであるならば、罪のない人間などいないことになります。この場面で男たちは情欲ぬきに彼女を見ることはできない。つまり、男たちは皆、姦通の罪を犯していることになるのです。そうであるなら、どうして彼女を罰することができるだろうか。たとえ外面的には「私は潔白でございます。ですから、この女を罰する資格を持っているのです。」と言っても、イエスさまの問い掛けの前には立ち止まらざるを得ません。なぜなら、この場合、外面的な潔白さは問題にならないからであります。

 イエスさまの「罪のない者が」という問い掛けに、男たちは自分の心の内にある罪深さに気付かされました。そしてそのとたん、男たちは彼女を赦すほかなくなったのでありました。年長者ほどよく分かった。だから、年長者から一人去り二人去りと立ち去ったのであります。
 そうしますと次に「誰が、男たちをして女を赦さざるを得なくしたのか」と言うことが問われて来ます。
 木来なら彼女は罰せられて当然です。
 その彼女が赦された。
 一体、誰が彼女を赦したのかと言うことです。
 イエスさまでしょうか。
 違います。イエスさまは、ただ「罪を犯したことのない者が……この女に石を投げなさい」と条件を出したに過ぎません。
 では、彼女を連れてきた律法学者やファリサイ派の者達でしょうか。
 それも違います。彼等は、自分には彼女を罰する資格がないことに気付かされたに過ぎません。それに、彼等は彼女を赦したくなかったはずです。
 赦したくなかった、にもかかわらず赦さざるを得なかった。
 ここです。

 彼等は赦したくなかった、にもかかわらず赦さざるを得なかったのです。
 彼等に神の愛が降(くだ)ったといわざるを得ない。
 彼等は神の愛によって赦されたのです。
 だから、赦された彼等は女を赦さざるを得なくされた。
 女は神の愛によって赦された者達によって赦された。
 では、誰が女を赦したのですか。
 それは、さかのぼれば、神の愛と言わざるを得ません。
 少なくとも、人間の愛や力や情けの類のものではない。なぜなら、人間の愛や情けには限界があるからです。私どもいくら忍耐強いからと言っても「仏の顔も三度まで」って言いますからね。限度があるのです。では、限度がないものとは何か。どんなに人を赦したくなくても、自分の罪を自覚したとたん、人を赦さざるを得なくさせられる。そこには限度がないのです。そう考えますと、人の罪を限りなく赦すこの力は神の愛と言うほかに言いようがないのです。

 繰り返しになりますが、自分の罪を自覚した心というのは、それがたとえ誰の心であろうと、神の愛が及んでいて、誰もがその神の愛に逆らうことが出来なくなり、人を赦さざるを得なくさせられるのだということ、これはイエスさまが神の愛を語るうえでの大前提であります。
 イエスさまは、この神の愛、即ち、聖霊をもし冒涜するようなことがあれば、それは最大の罪だと言っていることは忘れてはなりません。例えば、マルコによる福音書1章28〜29節でこう言っています。
 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。
 ここで聖霊とは神の霊、即ち神の愛です。

 ところですでに述べたことですが、罪を自覚することによって、どんな罪も神の愛という無限の力によって赦される。
 しかし、神の愛を冒涜するということは神の愛を受け取らないことであり、これは人の罪を赦さないことであるので神の愛を語るうえでの大前提が崩れてしまうことになり、あってはならないことなのであります。

 最後に問いたいのですが、
 イエスさまはなぜ人の心の中にまで手を突っ込んで罪の自覚を促そうとするのか。そんなことしたら一人残らず極悪人になってしまうではないかという問いです。
 それはこういうことです。
 極悪人を赦すほど、神の愛は深いということ、つまり「こんな自分が神に赦されているなら、人を赦さざるを得ないではないか」という神の愛に、一人残らずイエスさまは招き入れたいからであると。
 口ーマの信徒への手紙の11章32節でパウロはこう述べています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と。人間の罪までもその救いのために利用される、その神の深遠なる知恵にパウロは思わず感嘆の声をあげずにはいられなかったのです(同33節)。
 私ども自分の罪の深さを知り、それを赦す神の愛の無限の深さを知り、イエスさまの愛の招きに、さらに与ることができますように願い続けたいと思います。
鳩山伝道所 藍田修牧師
(あいだ おさむ)




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