2013年3月のみことば |
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 (ルカによる福音書13章1〜5節) |
「罪深い事件」その一 イエス・キリストが、神の使命を負い、その宣教の業を開始した当時、なんとも痛ましい事件がエルサレムで起こります。 ひとつは、時のローマ総督ピラトによって、多数のガリラヤ人が殺された事件です。この事件の詳細は不明ですが、ガリラヤ人たちが、ローマへの暴動を計画していた。しかし、この暴動が事前に、ローマ当局の知るところとなり、蜂起を準備していたガリラヤ人たちは、ローマ軍によって、エルサレム神殿内で殺されてしまった。これが事件の概要のようです。 結局、この事件の結末は、エルサレム神殿で献げられる犠牲の動物の血と、殺されたガリラヤ人たちの血とが、神殿内で混じり合う、という悲惨な結果で終わりました。 当時のエルサレムの人々たちの、この事件への反応、それは、こんな「惨めな最後をとげる人たち」というのは、よほど過激で「罪深い連中」にちがいない、というものでありました。 「罪深い事件」その二 もう一つの痛ましい事件、それは「シロアムの塔の倒壊」です。 当時のエルサレム市内には「上水道」があり、そのための池が、「シロアムの池」で、「シロアムの塔」は、この池の近くにありました。ところが、この塔が何らかの理由で倒れ、その下敷きとなって、十八名もの住民たちが死亡するという事件がおこります。 当時のエルサレムの人々は、こんな「惨めな死に方をする人たち」というのは、よほど「罪深い人たち」にちがいない、こう噂をし合っていたものと思われます。 「天刑病」、イエスの癒し ハンセン病とよばれる病気があります。その伝染性はきわめて低く、現在は、完全に治癒可能なこの病気は、かつての日本で「天刑病(てんけいびょう)」とよばれていました。それは、かつてこの病気を患った人々が受けた生活の悲惨さのゆえに、当時の人々はこの病気を、「天のたたり」「神からの罰」あるいは「前世の因縁」として受けとめようとしたからです。しかし、イエスは全く違っていました。イエスは、『新約聖書』の福音書にあるとおり、「神の国宣教」の初め、真っ先に、「重い皮膚病を患った人々」を癒しています。「神の前に、汚れた者はいない。私はあなたの汚れを負い、その汚れを清める」これが、神(天)から私たちの許につかわされた「神の子・イエスの癒し」です。このイエスにおいて「天刑病」としての「ハンセン病」は明確に否定されています。 「神の業が現れる」 『ヨハネ福音書』(9章)によると、イエスは「生まれつき目の見えない盲人」を前に、彼の盲目は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が現れるためである。」と語っています。 それは、神の子・イエスにおいて、「罪深い者」が病気や障碍を負うという、当時のユダヤ教の考え、すなわち「律法絶対主義」は完全に否定されているからです。さらにイエスは、神は盲人の障碍をも用いて、この人に「神の業」を現わすと宣言しています。(実は、『ヨハネ福音書』9章に登場するこの盲人は、あの倒壊した「シロアムの塔」の近くにある「シロアムの池」でその目を癒されているわけです。) 「悔い改めなければ、皆滅びる」 イエスは「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」この言葉をくりかえしています。この言葉は、「罪深い事件」一とニで述べた、神殿で殺されたガリラヤ人たちや、シロアムの塔の下敷きで死んだ人たちは皆、罪深く、神によって滅ぼされてしまった、という意味ではありません。 そうではなく、ここで「あなたがた」とは、当時のイスラエルの人々ばかりでなく、今、イエスの言葉を聞く、「私たち一人一人」のことです。それは、「滅び」とは、私たちとは違う「罪深い人々」の問題ではないからです。「滅び」とは今を生きる、私たち一人一人の問題であるからです。 イエスはここで、私たち一人一人に問いかけています。「今、あなたが神の前に真実に、悔い改めなければ、あなた自身が、神の前に、滅んでしまうかもしれない!」イエスは、こう私たち一人一人に問いかけているわけです。 「滅び」とは 聖書に於いて「滅び」とは、何よりも「神との関係が全く絶たれてしまう」ということです。「救い」と正反対のことばが「滅び」です。 私という全存在が、私の生と死にかかわらず、神の前で完全に否定されてしまうこと、これが「私の滅び」に他なりません。 「裁きの神」と「悔い改めを待つ神」 当時のユダヤ教の中心的な人々は、イスラエルの人々に「裁きの神」を教えました。そして、神に何よりも裁かれるべきは、律法を守らない、「罪深い人々」だと断じました。 結局、律法を正しく守れない人々、守らない人々は、「罪びと」と断じられ、「滅び」へと追いやられていくことになります。 これに対して、イエスは、「悔い改めを待つ神」を教えました。今、神は、全ての人が、神の前に悔い改めることを待っています。それは、神に心から悔い改める者は、決して滅ぼされることはないからです。 「罪の軽重」そして「私の罪」・「私の滅び」 神の前に立つ、私たち一人一人において、その罪が他の人より「軽い」か「重い」かという、「罪の軽重」は一切問題ではありません。 たとえば、パウロは、「わたしは、罪びとの中の最たる者です。」と述懐しています。(Tテモテ1・15)つまり、パウロにとって、他の人と較べて、自分の罪が「軽い」「重い」とかは一切問題ではありませんでした。問題は、神の前に立つパウロが、「パウロの罪」において、「罪びと」以外の何者でもないという事実です。 今の私たちもパウロと同じです。私たちがなすべきこと、それは、今私たちが、「他者の罪」の「軽い」「重い」を様々に論ずることではありません。私たちがなすべきこと、それは「私の罪」と、その先にある「私の滅び」を、私たちそれぞれが、今、しっかり見すえるということではないでしょうか。 「悔い改め」の喜びと希望 『ルカ福音書』は福音書の中でも、私たち人間の「悔い改め」を強調します。聖書における「悔い改め」とは、「神の前に自らの生き方を変える」ということです。「自分中心」から「神中心」へと方向転換をすることです。 この「悔い改め」において、はじめて私たちは「滅び」から「救い」へと、私たちの生き方が、神によって変えられていきます。 ただ、私は、私自身も含めて、今の私たち自身が、「悔い改める」ということに、積極的ではないように思います。きわめて消極的です。それは、今の私たちが、「自分はできるだけ罪を犯さず、できるだけ悔い改めたくない」と思っているからではないでしょうか。 このような私たちが、たとえば、『ルカ福音書』(19章)に出てくる「徴税人ザアカイ」のように、積極的に、そして真実に、神に向かって、その生き方を変える者でありたい、つまり真実に「悔い改める者」でありたいと、願わずにはおれません。 宗教改革者マルチン・ルターの言葉に、「大胆に罪を犯し、大胆に悔い改めよ」という言葉があります。この言葉は、私たちに向けた罪のすすめでなく、「悔い改めること」の大いなるすすめの言葉です。 「救い」こそ神の意志 イエスは、『新約聖書』の福音書の中で、「わたしは、正しい人でなく、罪びとを招くために来た」と語っています。今、神は、私たち人間が、その罪のゆえに、滅びることを決して望んでいません。 降誕日に、そのひとり子、イエスを、私たちの許へと降す、「神の意志」、それは私たちを「滅ぼす」ことでなく、私たちを「救う」ことにあるからです。 今、私たちが、やがて成就する「神の国」を前に、なすべきこと、それは、これからの私たちが「滅び」に向かって生きることではありません。これからの私たちが「救い」に向かって生きることです。 これからの私たちが、全てのことを「終わりの日」に成就する「私の救い」に向かって生きていきたい。これが私たちの心からの願いであり祈りです。 祈り あなたは、私たちが、罪のゆえに滅びることを良しとせず、あなたの御子・主イエスの、尊い贖いの御業をとおして、今、私たちを、あなたの「救い」へと、招いています。この恵みに感謝し、あなたの御名を讃美します。どうか、あなたが、私たち一人一人に、「悔いた心」「砕けた心」を日々与えてください。私たちが、「滅び」を超えて、「救い」へと招くあなたに聞き、あなたの声に従う者でありますように。あなたが、私たちを、世の救いのために仕える者、人々に和解と平和を伝える者、そして、この世に神の栄光を現わす者としてください。 ※付記 日本では、いまだ「死刑制度」が存続しています。しかし、世界の大勢は「死刑制度」の廃絶です。日本では「犯罪被害者」の立場たって、許し難い「凶悪犯」には「極刑としての死刑」が必要だ、とする意見が根強いようです。 ただ、私は、今回の聖書の個所を含めて、私たちが福音書を読む時、イエスは、私たちに「この世には、あなたちとは全く違う、特別に罪深い人間(たとえば凶悪犯)がいるのだろうか?」と問いかけているように思います。 私は一宗教者としてこの国の死刑制度の廃止を求めます。また、この国では、犯罪を犯してしまった「加害者とその家族たち」については、ほとんど顧みられることはありません。しかし、ありのままの私たちは、犯罪の「被害者」になる可能性ばかりでなく、犯罪の「加害者」やその家族になる可能性も、十分にあるのではないでしょうか。 最近、鈴木伸元著『加害者家族』(幻冬舎新書)を読みました。同書は、「犯人とその家族」に対する社会の断罪、それに伴う「加害者家族」の直面する過酷な現実が、よく描かれています。 |
本庄教会 飯野敏明牧師 (いいの としあき) |
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