2013年5月のみことば


神の怒りと憐れみ

9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
                   (ローマの信徒への手紙9章14〜29節)
【はじめに】
 何年か前に妹と一緒に陶芸教室に参加しました。わたしは湯のみ茶碗を作ったのですが、出来上がりは、肉厚の小型のどんぶりのようになっていました。その作品は、現在おかず入れとして愛用しています。
 さて、父なる神は超最高の腕前の焼物師(陶器師)です。現在でも父なる神は御自分の望まれるように器を形作っておられます。神は選ばれ、怒りの器にも、憐れみの器にもわたしたちをお造りになることがおできなさるお方です。
 
【今日の聖書の区分】
14-18節  イスラエルの選び。
19-22節  神の怒り。
23-29節  神の憐れみ。

 1 イスラエルの選び。
16 「・・これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」
18 「・・神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」

 使徒パウロは、旧約聖書の出エジプト記33章19節の記事を引用しつつ、選びは、人間の意志や努力によるのではなく、神の憐れみ(選び)によるのだと告げています。イスラエルも、真のイスラエルも神の憐れみによって選ばれたのです。
        
 2 神の怒り
19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
   
 当時、パウロの働きやその考えに反対する人々も少なくありませんでした。律法主義的クリスチャンは、律法を守ることによって、救いは成就するという考えを抱いていました。その考えは、かつてのパウロもそうでした。かれらの考えは、人間の努力や行いによって、律法を守ることによって、道徳的に善をなしてきたのだから、そのことを神は評価してもよいのではないのか、そうでないなら、神は不公平な方です。正義は神にないのではという考えであったようです。・・人間の努力や行い、神様なしの律法主義的な生き方、このような考えに対して、使徒パウロは、メーゲノイト、決してそのようなことはありません。と言います。仮に、人間の評価が神に優先するものであるならば、神の存在は、無くてもよいことになります。その場合、人間の考えが偶像になってしまいます。偶像は、神が最も忌み嫌われるものです。焼き物師(陶器師)である神は、貴いことに用いる器を造ることもでき、貴くない器、怒りの器に造ることもおできになられるお方です。
 使徒パウロが直面しているイスラエルの民は、神の御旨に反して、自らを怒りの器として、滅びの方向に歩もうとしています。
 神は、イスラエルの民族を選ばれたお方、わたしたちを創造されたお方、憐れみをもって御臨在くださっておられるお方です。そのお方に対して、あなたは不公平な方、あなたは不正な方、間違っているなどと言えるでしょうか。
 神は憐れみふかいお方であります。寛大な心と忍耐とをもって、イスラエルの民を、神の御旨に反して、自らを怒りの器として、滅びの方向に歩もうとしている者を、待っていてくださっておられるお方です。主は万事を益としてくださるお方です。

 3 神の憐れみ
23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召しだしてくださいました。
25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
26 『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
 
 神は、憐れみの器として、パウロを含めて、ユダヤ人だけではなく、異邦人からも選び、召しだされました。それは神の憐れみによるものです。選民とされたイスラエル民族のみが憐れみの器でなく、神の憐れみによって、イスラエルの中から召された残りの者が、そして異邦人の中から選び出された残りの者が憐れみの器とされました。その残りの者を通して、イスラエル民族は、ソドムのように、ゴモラのように、滅びにいたらないで今日まであるを得ているということが言えると思います。イスラエル民族だけではなく、異邦人もまた、残りの者を通して、今日あるを得ているといえます。それはイスラエル民族に対する、異邦人に対する神の憐れみによるものと受けとめたいです。

 コアラで有名なオーストラリアにニック・ブイチチさんと言う方がおられます。今年29歳か30歳になられる方です。ブイチチさんは、教会を始められた両親のもとに3人兄弟の長男として生まれました。下の弟や妹には腕や足があるのに、ブイチチさんには、生まれた時から腕と足がありません。イエスさまがブイチチさんを愛していてくださっていることは、分かっていたけれども、ブイチチさんは、時々、神に怒りをぶつけていました。そのことが何年も続きました。彼はつぶやきました。「神様はぼくを愛していてくださっていないのだ。」「僕は、間違って生まれた存在なんだ。」「きっと僕はよい人生をおくることはできない。」「働けない、結婚できない。もし、結婚したとしても、妻の手を握ることもできない、自分の子供を抱きしめることもできない。」・・普通の学校に通ったブイチチさんは、みんなと違ってできないことが多く、しょっちゅうからかわれたり、いじめにあったりします。悲しくて、泣くことも、傷ついて、孤独になることもありました。そんな時、両親は、抱きしめてくれるのですが、ブイチチさんの涙の本当の意味を知ることはできなかったそうです。ブイチチさんは次第に神から離れていき、こころに希望がなく、こころに痛みは絶えなかったそうです。10歳の時、自殺を試みました。しかし、両親が悲しむことを思って、思いとどまりました。15歳の時に転機が訪れました。生けるみことばに出会ったのです。そのみことばはヨハネによる福音書9章1節〜3節でした。ブイチチさんは、しばしそのみことばに釘づけにされました。ブイチチさんは、どうしてそうなのか分からないけれども、神だけは知っておられるのだということを受けとめることができたのです。

ヨハネによる福音書9章1節〜3節
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 ここに登場している目の見えない人も、ブイチチさんも神様の憐れみにふれられた方であると思います。
 憐れみは、神様から与えられるものです。わたしたちの努力や行いによらず、神様の自由意志によって、なされるものです。陶器師は粘土を自由に造りたいものに造ります。粘土も素晴らしい器として、形作られます。しかし、現実にはありえないことですが、仮に粘土が、わたしは、このような形に造って欲しくないと言って、陶器師の手を止めるようなことがあったならば、多分ゆがんだ器が出来あがったりするでしょう。
 神様は、今、わたしたちを憐れんでいてくださる、そう受けとめたいです。
 神様は陶器師、今、わたしたちを御自分の意志によって、よき器として、手をかけていてくださっておられます。わたしたちは、よい器にしていただきたいと思っています。ですから、陶器師である神様の御手を止めるようなことがあってはならないですね。わたしたちは器です。器の材料は粘土であり、土くれです。土くれは脆く、弱い存在です。神様はそのようなわたしたちをよく御存知です。神様は憐れみ深いお方です。わたしたちの側としてなすことは、神様に委ねること、自分を明け渡すことが大切なことになってきます。憐れみの器、残りの者としての意味を深く受けとめましょう。愛する家族・友人・知人の救いのために、良き証し人でありましょう。

【 祈り 】
 天の父なる神様、今日は、ローマの信徒への手紙9章14〜29節より「神の怒りと憐れみ」という主題のもとに、恵みの御言葉をいただけましたことを感謝いたします。
 足りない欠けのあるものですが、神の憐れみによって、今、ここにある恵みを覚えます。どうぞ憐れみの器として、主の十字架と復活その福音をしっかり証ししていける者とされますように願います。
 この願いと感謝、主の御名によって祈ります。アーメン。
東京聖書学校吉川教会 坪内時雄伝道師
(つぼうち ときお)




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