2013年6月のみことば


弟子たちに聖霊が与えられる

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
                   (使徒言行録2章1〜11節)

 2013年の聖霊降臨日、ペンテコステは5月19日でした。私たちは毎年この時期(5月から6月)にペンテコステを迎えていますが、皆様は、今年はどのような思いで迎えられたでしょうか。
 私は保育園の副園長として木曜日以外の日には保育園で仕事をしていますので、それも夜8時過ぎまで、家に帰るのも9時頃になってしまいますから、本当に忙しい毎日で、説教の準備をする時間をとることもままならないほどです。しかし、それだけ忙しいにもかかわらず、毎主日の礼拝において説教を行うことが出来ているのは、聖霊の助けのおかげだと心から思わされて感謝をしています。 
  
 ところで、旧約・ヨエル書3章1節に「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」とあります。この御言葉の「その後」という言葉は、使徒言行録2章17節では「終わりの時に」と変えられています。
 現代人である私たちは、連続した毎日、ある意味では平凡な日常を生活としていますので実感としてはなかなか感じられないことですが、聖霊を与えられ、主の弟子たちが福音を語り始めたころの教会では、主イエスがこの世に来られ、十字架にかけられ、復活され、昇天されたということは、まさに終末の時となったのだという強い意識があったということを「終わりの時に」という言葉は示しています。その具体的な姿を使徒言行録2章43節以下にある「信者の生活」、あるいは同4章32節以下の「持ち物を共有する」ということに見ることが出来ます。
 
 そのような終末の時としての「その後」が語られ、そのあとに「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と語られています。この御言葉は、ヨエル書が書かれた時代にあっては、それが紀元前何世紀かは分かりませんが、驚きをもって聞かれたのではないでしょうか。なぜなら、神の霊は、イスラエルの歴史と伝統の中では、神の特別な選びと恵みを受けた者たちだけに与えられると考えられていたからです。モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤなど、あるいは士師記に記されているギデオンであるとか、サムソンであるとか、その名を上げ始めるときりがありませんが、そうした人々に神の霊は与えられるのであって、ヨエル書の言葉にあるような「すべての人」、その中には貧しくて神に献げ物を捧げることの出来なかった人々もいたでしょうし、「息子や娘、老人、若者」といった言葉があります。あるいはまた「奴隷」という言葉もあります。そのような、一般のすべての人に神の霊が注がれるとは誰も考えていなかったに違いありません。

 もちろん、ヨエル書の御言葉が語られていたことは、祭司あるいは神殿預言者と言われていた人々は知っていたでしょう。しかし、それが現実のものとなるとは実感していなかっただろうと思います。
 その出来事、「神の霊がすべての人に与えられるという現実」が、現実となると言われたのが、復活され、昇天された主イエスです。使徒言行録1章14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」とありますが、ユダを除いた主イエスの11人の弟子たち、そして最初から主イエスに従っていた婦人たち、そうした人々は主イエスの十字架と復活、そして昇天という出来事の中で、主イエスが語られていた御言葉を思い起こし、神の霊、聖霊が与えられるという主イエスの御言葉を固く信じ、聖霊が与えられる日を待ち望んでいたに違いないと思います。

 ヨエル書の「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」とあります御言葉の中の「注ぐ」という言葉は、水などの液体を注ぐという時に使われる言葉です。同じ言葉が、旧約・詩編62篇9節では「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」と、心の内にある思いを注ぐという意味合いで使われています。また、サムエル記上1章15節にはもこのようにあります。子どもを与えられないハンナという女性が神殿で「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげしますと必死に祈り続けていました。その姿を祭司のエリに見とがめられました。その時、ハンナは「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んでおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎだしています」と答えています。ここにも「注ぐ」という言葉で、ハンナが自分の強い願いや思いを語りだしていることが分かります。

 「注ぐ」という言葉には、そのように人が自分の意思や思い、あるいは感情や訴えを、聞く者に信頼して表現し、聞く者と語る者とが心を分かち合うということが想定されているのです。
 その「注ぐ」という言葉がヨエル書3章1節にあるということは、神が、神として遠く離れ、畏怖し、礼拝する対象としてあるだけではなく、生きている人間の思いや悩み、辛さや悲しみ対して、御心を分かち合って下さるということが意味されていると言えるでしょう。

 ルカ福音書24章49節で、主イエスは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われています。また、使徒言行録1章8節では「あなたがたに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と語られています。父が約束されたものを送る、聖霊が降る、ということは、神の霊が弟子たちに注がれることによって、神が私たち人間の心の内にある思いや感情、意思、あるいは自分は罪なる人間であるといった罪責感、そうしたすべての思いに神が御心を合わせて下さり、分かち合って下さるということを意味していると言っても良いと思います。それが、聖霊が与えられるということであると、ヨエル書の「注ぐ」という言葉から言うことができるのです。

 主イエスの最初の弟子たち、つまり女性の弟子たちも男性の弟子たちも皆、本当にその時が与えられることを心から祈っていたでしょう。彼らはおそらく、自分たちはこの世にあって、ユダヤ教社会の中にあって、十字架刑を負わされたあのイエスという男の仲間たちだったという烙印を押された者たちであると認識していたでしょうから、当然のこととして心細い思いをしていたでしょうし、いつ自分たちも捕らえられるかもしれないと不安にも思っていたでしょう。それだけに、主が約束された聖霊を与えられる時が「いつか、いつか」と深い祈りを持って待ち望み続けていたに違いありません。

 その待ち望み続けていた聖霊が与えられた日、それが五旬祭の日です。使徒言行録には「五旬祭の日が来て」と訳されていますが、「来て」という言葉には「満たされて」という意味の言葉がギリシャ語聖書では使われています。単純に日数が過ぎて五旬祭の日が来たと綴ってあるのではありません。使徒言行録を書き記したルカは、きっと万感の思いを持って「満たされて」という言葉を使ったであろうと思います。

 それは、聖霊が与えられるという主イエスの御言葉を信じ、喜びつつ待ちつつづけた者たちだけが持つことの出来る思いであります。「満たされて」という言葉でしか表現できない思いだったのです。その思いは、私たちが自分たちの経験を通しても分かる思いです。何かを待ち続け、その日が到達した時、私たちはどんなに大きな喜びの感情に満たされるでしょう。ルカは、そのような喜びを「満たされて」という言葉で表したのです。そしてその出来事を、激しい風、音、そして炎のような舌が現れたといった言葉で神の現臨、聖霊が与えられた時の様子を書き綴ったのです。

 聖霊が与えられる、神が現臨されるということは、使徒言行録2章に綴られているように、異常現象としていつも現れるとは限りません。モーセは神の山ホレブの近くで、柴の間に燃えている小さな火に近づくことによって、神に出会いました。また、預言者のエリヤは洞穴の中に逃げ込んでいた時、静かに囁く神の声を聴きました。そのように聖霊が与えられるときというのは、様々です。激しい感情が私たちを襲っているときもあれば、まったく変わらない日常の中で神の御言葉を聞くこともあります。大切なことは、主イエスが語られた御言葉を日々の生活の中で毎日毎日、それこそ繰り返しのように繰り返して聞くことです。

 弟子たちが聖霊を与えられたのも、主が聖霊を与えるという御言葉を信じて、エルサレムの静まった部屋で祈りを共にし続けてきたからです。そのような日々がもしなかったとしたら、弟子たちに聖霊が与えられる日が来るとは考えられません。主を信じ、祈り、待ち続けていたからこそ、与えられたのです。

 聖霊を与えられた弟子たちは、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。このことを考える時、ヨエル書の「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われた神の御言葉の「注ぐ」という言葉について前記したことをもう一度思い起こしてください。神がその霊を人間に与えられる時、私たち人間に神が御心を合わせて下さり、私たち人間の思いや心を分かち合って下さるのです。それが聖霊降臨の時、いろいろな国からエルサレムに来ていた人々の国の言葉を使って弟子たちが主イエスの福音を語ったという出来事に現れています。

 私たちが主イエスの弟子として、キリスト者として生きる時、この聖霊降臨の時に弟子たちがいろいろな国の言葉で福音を語ったということをいつも心に深くしておかなければなりません。私たちはともすると、隣人と語り合う時、自分の言葉で語ってしまいます。聞く者の心の内を配慮することをせず、自分の思いの中だけで語っているということがあります。自分の正しさを語るときもそうですし、相手を責めるときもそうです。聞く者の側に立って語ることをする。つまり、他者の側に自分を置くということです。それが聖霊降臨の時に多言語の言葉で語られた奇跡が私たちに示していることであるように思います。
飯能教会 土橋 誠牧師
(どばし まこと)




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