2013年7月のみことば |
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 (ヨハネによる福音書 8章1節〜11節) |
いつも七里教会を覚え、祈り、支えて下さいますことを心より感謝申し上げます。体調が不十分なため、地区活動などに十分なお手伝いができないでいることを心よりお詫びいたします。 教会は、日毎に「神様(聖霊)の働き」に生かされ、小さくても豊かに祝福され、成長いたしております。数年前に受けた託宣「礼拝出席者数平均40名」に向かって、「祈りと思いを一つ」にして歩んでおりますが、2013年の年間標句として、神は、≪希望はわたしたちをあざむくことがありません≫(ローマの信徒への手紙5章)を教会の群れにお示しになり、日曜毎の礼拝の中で「御言葉の確かさ」を確認させていただきながら、教会生活を楽しく、感謝しながら歩んでおります。 未だ開拓途中の教会ですが、高齢者の方も増えて参りましたし、最近は「転入者・求道者」も加えられ、賑やかに楽しく、主に与えられた「希望」をもって諸集会を守っております。 このヨハネによる福音書の御言葉です。ヨハネは「神の時・支配」を主張しております。あの「カナでの奇跡物語」(2章)をはじめ、「ニコデモとの対話」(3章)、「サマリアの女との出会い」(4章)、そして、あの「べトザタの池での癒し物語」(5章)においても、「神の時」が強く主張されておりました。七里の開拓伝道の歴史においても、「静まりて待て」との主のみ声に、聖霊様の確かな働きを感じ、受け止める時に、「人の側の計画(力)」を超えた、「神の時・神の支配」を感じてきました。 さて、テキストは、著名な『姦通の女の物語』です。8章1節にはイエス様は「オリーブ山へ行かれた」と、著者ヨハネは記述しておりますが、これから起こるであろう「イエスの出来事」においては、主イエスご自身が「オリーブ山での祈り」が必要であったことを、読者であるわたしたちに伝えています。「静まりて、祈れ」との教訓は、今の時代にキリスト者として歩むわたしたちへの重さのある信仰的メッセージです。 なれど、現代を歩むわたしたちには大きな疑念があります。聖書には疑念が多くありますので、調べ、学びます。しかし、「主よ、なぜなのですか」との祈りの叫びは、必ず聖霊による教示が与えられ、導きが与えられて、真理(神意)が示され、真摯な信仰へとわたしたちを導いてくださるからです。 物語は古いイスラエル信仰共同体社会(現・日本社会も)という、特有な生活圏での出来事の記述です。その共同体が、たとえ「男子優勢」であったとしても、この「姦通」した女性の生活環境を想起することができても、「なぜ女性だけが」連れて来られ、男は一緒でなかったのか、という情報がありません。男は訴える者たちの知り合いだったのか、女性をおいて逃げてしまうというずるい男だったのか。そして、誰がどのように発見したのか。この不思議物語を通して、わたしたちにイエスは、何か大事なことを教示されているに違いないと、さらに深い神意を追究する求道者にならざるを得ません。 3節に、律法によれば死刑を受けるべき1人の女性が、大勢の群衆(民衆)の前に連れて来られた、とあります。旧約のレビ記20章10節には「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあります。「石打の刑」とは、死刑囚の汚れ(けがれ)に直接触れることなく死刑を執行するための方法でした。 その場面に、「律法学者やファリサイ派の人たち」が登場するのです。著者ヨハネはその意図を「イエスを試すため」と著述しています。(6節)「試す」とは、試験のことではなく、このことへの振る舞いによって、イエス様が旧約律法を破る者であるとして、当局に訴えようと考えてのことであります。 もし、姦淫を犯した女を赦せば、旧約律法を破ることになり、イエス様を追い詰めることが出来るようになります。もちろん、旧約律法通りにイエス様が振る舞えば、イエス様は人々からの評判を失ってしまうでしょうし、当時ユダヤを支配していたローマ帝国が死刑執行権を持っていましたから、ローマの権威を踏みにじる者だといって告発することもできるのでした。どちらに転んでも、彼らの願いは実現するはずでありました。 「律法」か「愛」かの選択を求められて、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と口を開かれました。それは、旧約律法の規定の死刑を容認なさったように聞こえます。が、罪を犯した女に投げつけようと手にしていた石をそこに残して、群衆は年長者から始まり、一人また一人とその場から立ち去っていったというのです。「罪を犯したことのない者」など、一人としていなかったし、群衆の全てがそれを認識していたのでした。 群衆が去ったあとには、身をかがめたままのイエス様と、今にも石を投げつけられるのではと震えていた「姦通の女」だけが残されました。死刑執行人たちの前に立たされていたこの女は、いきなり、神 (主イエス)と対峙させられることになりました。死刑に同意した先生(イエス)が立ち上がり自分の前に立ち上がったのでした。彼女にとつてはさらに「息苦しい」時間であったことでしょう。すべての人は、この「神との対峙」を避けることはできないのです。 女の恐れを超えて、イエスの口から出てきた言葉は「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」、そして、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」というものでした。きっと、ぬくもりのある主のみ声は天来の響きとして、この女は受けたことでしょう。「これからは、もう罪を犯してはならない。」といわれて解放されたこの人は、希望ある「明日」に向かってしっかりと歩み始めたことでしょう。 齢73歳を越えました。風間の体調も日ごとに弱ってきておりますが、神が許されるあいだは、牧会・伝道に励んでまいります。歳を重ねた昨今、寝床脇に立てた姿見の中の自分を観ながら祈ると共に、鏡に問いかけています。「世界で一番幸せ者は誰ですか」と。鏡は答えます「おまえだよ」と。コヘレト書3章12節に、「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と」と、ありました。残された日々を、主にあって楽しく過ごしたいと思います。イエス様に出会い、聞き従った人々が「幸いな者」と呼ばれました。わたしのように幸いな人がたくさん起こされるように一人でも多くの人々に「主イエスの賜る幸い」を語り続け、「共生」したいと願っています。 |
七里教会 風間直次郎牧師 (かざま なおじろう) |
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