2013年9月のみことば |
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった (使徒言行録9章1節〜9節) |
【序論】「はじめに」 @ 「活字離れが甚だしい」と言われて久しい現代ですが、その中で、村上春樹の小説「1Q84」は300万部以上を売り上げ、毎年「ノーベル文学賞受賞最有力候補作家」と噂されます。しかし、彼以上に多くの読者を毎年獲得して、多くの人々の心に影響を与えている人物をご存知でしょうか? その売上数は、日本国内だけでも3億4584万1334部(1874年〜2004年)。世界各国の言葉で翻訳され頒布されている発行部数は年間3億6500万部(2010年の一年間)と言われています。 では、そのベストセラー作家の名前は、と言いますと「使徒パウロ」。彼の著書は、「新約聖書」の27書の内、約半分の13書。その13の書を含む「新約聖書」が、毎年毎年、全世界で3億冊以上売れているのです。もし、パウロが現代に生きる作家であったら、間違いなく「ノーベル文学賞作家」とされたことでしょう。 A そのように多くの人々に読まれ、多くの感動、共感、感化を与えるベストセラー作家の「使徒パウロ」の著書の中身は興味深いものですが、彼自身の生涯も、必ずや、読者の皆さんの興味をそそるものがありましょう。 その生涯は、同じく新約聖書の中の「使徒言行録」に記されています。多くの「使徒」と呼ばれるイエス・キリストの代表的なお弟子たちのことが、この書に記されていますが、その中でほぼ3分の2の分量が、彼、「使徒パウロ」の生涯の記事で占められています。それは波乱万丈の生涯でして、もちろん映画にもなっています。 B ところで皆さんは、今年、「蝶(ちょう)」「蝶々(ちょうちょ)」を見られたでしょうか?あの草花の回りをきれいな羽を羽ばたかせて飛んでいる「蝶々」です。その「蝶々」の中には、何と1800kmを自分で飛んだ記録があります。飛行機の中や船の中にいたのではなく、大空を羽ばたいて、1800kmです。 沖縄県の「与那国(よなぐに)島(じま)」、・・・今、毎日のように領海侵犯が問題になっています「尖閣諸島」の、さらに南、南方150km行った所にあります「与那国(よなぐに)島(じま)」と関西地方の「大阪」の間の約1800kmを自力で飛んだ、というのです。 C もちろん「蝶々」は、みんな同じに見えまして簡単に区別できませんので、羽の粉(鱗(りん)粉(ぷん))の付いていない「半透明の部分」に、油性ペンで記号を書いて登録しておきますと、その「蝶々」を別の地方で捕えた人がその羽に記した記号を見て、「何処から、何キロ飛んで来たか?」が分かるというのです。 沖縄と大阪の間1800kmを飛ぶなんてすごい事だなと思いますが、その「蝶々」も、元はといえば空を全く飛べない、またあの綺麗な羽をもつ「蝶々」とは似ても似つかない「蛹(さなぎ)」から羽化(うか)したものであることは、皆さんよくご存知ですね。 D 自然界の、そのような「営み」、・・・堅い殻に閉ざされた「蛹」が、羽化し姿変わりをして、綺麗な羽をもって大空を羽ばたき、何千kmも飛ぶす姿は、不思議ですが、実は、私達人間の世界にもそのような姿変わり、大変身があります。 E そのように、全く姿変わりした人物、「蛹」から「蝶」になる以上に全く変わった人物の代表格が、実は、先程申しました「ベストセラー作家」の「使徒パウロ」です。 彼のそのような生き様を皆さんに知っていただき、そこから皆さんが、実りある人生を生きる素晴らしいヒントを得て頂ければと思います。 【本論】 【1】「蝶々になるな前の蛹のパウロ」パウロの生い立ち @ さて、この「使徒パウロ」は、・・・「生粋の江戸っ子・・」ではなく「バリバリのユダヤ人」「生粋のヘブライ人」でした。彼の血筋を遡(さかのぼ)りますと、イスラエル民族の中の「ベニヤミン族」にありました。その「ベニヤミン族」の出世頭でありました初代イスラエルの王様「サウル王」にあやかって、多分、彼は「サウロ」と命名されたのかもしれません。しかし、後に彼は、ローマ名で「小さい(者)」を意味する「パウロ」と呼ばれるようになりました。 A その「パウロ」ですが、「サウロ」と名乗っていた時には、自分がユダヤ人、ユダヤ教徒であったことを誇っていたようでして、新約聖書の「フィリピの信徒への手紙3章5節、6節」にこう記しています。 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人(じん)の中のヘブライ人(じん)です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙3章5節、6節) B ですから、彼の生涯の多くの部分を紹介しています「使徒言行録」の「7章58節」には、「初代キリスト教会」の中心的なクリスチャンであったステファノが、その言葉においても行動においても余りにも多くの人々の心をとらえ人気を博する人物であったので、ユダヤ教の指導者に妬まれまして、更に、石打ちの刑にされて殉教する時に、サウロは、「(それに)賛成して」(8章1節)、ステファノに石を投げる人々の上着の番をしたのでした。 現代の法律でしたら、「殺人幇助(ほうじょ)」の罪に問われる訳ですが、サウロはその時、「何の罪もない善良な人」を殺すことに、積極的に加担していたのでした。 C 更に「その後は?」と言いますと、サウロは自らが先頭に立って、当時のエルサレムの町にありますキリスト教会を襲い迫害する者となりました。 当時、キリスト教会は誕生して間もない時でしたので、信徒が家庭を開放して、そこに集まって礼拝する「家の教会」でしたので、「サウロは、(その)家から家へと押し入って、教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」と「使徒言行録8章3節」に記されています。 D 当時のキリスト教会の人々にとっては、「悪魔の化身(けしん)」のようなサウロでした。サウロは、キリスト教を受入れた人々が「十字架に架けられ、呪われた罪人イエスが甦った。彼こそ待ち望んで来た神の子メシヤだ。」などと信じていることが、許せませんでした。何故なら、ただお一人の聖い主なる神様をのみ信じていたユダヤ教徒にとっては、「人となられた神。しかも呪いの木である十字架にかけられた人間がメシヤだ。」と信じることは、まさに「主なる神様への冒涜」であり、赦されざる「偶像礼拝ですらある」と考えたのでしょう。 E ですからサウロは、キリスト教会の人々に対して仮借ない処罰をしました。彼は、クリスチャンを傷つけ、投獄し、殺害しました(使徒言行録22章4節)。それはサウロにとって、主なる真の神様を信じて従っている証し、「神様への忠誠心の最大の表れ」と考え、人殺しをしても自分は「正しい事をしている」と思っていたのでした。 F しかし、旧約聖書の知恵の書の「箴言12章15節」には、「無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。」とあります。サウロは、無知な者が「正しいと考える道」を、ひたすら突き進んでいったのでした。しかし、それは、「神様の嫌われる道」、「自らを破滅へ追いやる道」「永遠の滅びを刈取る道」でした。 【2】「羽化に到る道」教会迫害者サウロの行き詰まり。 @ さて、そのような「無知なサウロの教会迫害」は続いていましたが、意外な事が起りました。「使徒言行録9章1節、2節」にこうあります。 「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」 A このサウロの教会迫害は、エルサレムの都やユダヤ地方などの国内だけに留まらず、ユダヤの国以外の国外、外国に住むユダヤ人までにも及ぶ徹底的なものでした。 ここに出ています「ダマスコ」の町は、ユダヤの国の北東部のガリラヤ地方の、更に北のシリヤ州に属していまして、西側の地中海の沿岸地域と遠く南のエジプトや、東側のアラビヤを結ぶ重要な通商路(幹線道路)の交差する「重要な町」でして、ユダヤ人も多く住み着いている所でした。 B サウロは、その外国の町ダマスコにありました「ユダヤ教の諸会堂」でクリスチャンたちを捕えてエルサレムに強制的に連行するための許可証であります「大祭司の手紙」を得まして、それを持ってダマスコの町へ向かいました。しかし、この旅路がサウロの生涯、彼の人生を「全く変える道」となったのでした。 私たちの今までの生涯を振り返りましても、不思議なように神様の導きの御手が差し伸べられ、私達の「人生、生涯」を全く変えてしまう出来事があったのではないでしょうか。その当座は、その出来事の意味やその理由がなかなか分からなくても、後でハッキリと分かる「方向転換」の道があったのではないでしょうか?それにお気づきの方は幸いだと思います。 C サウロも、このダマスコへの旅路が図らずも「イエス・キリストを信じる道」「主なる神様に立ち帰る道」「本当の知恵ある人となる道」となったのでした。それでこの「使徒言行録」では、3回にも亘ってその出来事が記してあります。 【3】「蛹(さなぎ)から蝶々(ちょうちょ)への備え」サウロからパウロへの全き姿変わりの準備 @ ではサウロはどのようにして、無知で真の神様と敵対する「教会迫害者」から180°変わって、神様に従う「主イエス様の知恵ある僕」とされたのでしょうか。先程も申しましたが、「蛹」が羽化しまして、あの美しい羽を羽ばたかせて何千キロも飛び回る「蝶々」に変えられるのですが、サウロ、後の「使徒パウロ」は一体どうなっていったのでしょうか。 A次の「使徒言行録9章3節〜4節」にはこうあります。 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」(使徒言行録9章3節〜4節) B サウロが殺意に燃えて、クリスチャン達を苦しめ、傷つけ、エルサレムに連行しようとダマスコの町に入ろうとした時、その「寸前の所」で神様が介入されました。「間一髪」という言葉がありますが、まさにその「間一髪、サウロのもくろみは止められた」のでした。 C この「9章3節」には、「突然、天からの光が彼らの周りを照らした」とあります。同じ出来事を記しました並行記事の「使徒言行録26章13節」にも、「天からの光・・・それは太陽より明るく輝いて・・・・」とあります。この光は、神様の顕現(けんげん)(神様が御自身を顕されること)を表しています。主なる神様が現れなさった徴(しるし)です。 D 「光」とは不思議なものです。科学知識のある方なら、光は「波動」と「粒子」の2つの性質を持っていることをご存知でしょう。また、どんなものよりも早く伝わりまして、広大な宇宙空間を測る規準としても用いられ「何万光年」「何億光年」と大きな距離を測る目安となっています。また、真っ暗闇を締め出して、一瞬にして明るく輝く世界を作り上げます。 E そんな、格別に特異な存在が「光」ですが、新約聖書の「ヨハネの手紙第一の1章5節」では、天地万物を創造され、それを統治しておられる「主なる神様」についてこう言っています。 「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」 また、同じく新約聖書の「ヤコブの手紙の1章17節」にも、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源(みなもと)である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」とありまして、ここでは真の神様のことを「光」ではなく「光の源(みなもと)である御父(おんちち)」と記しています。 F この時、「光に打たれた」当の本人のサウロ、後の「使徒パウロ」も、「テモテへの手紙第一の6章16節」で、こう振り返っています。真の神様は「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」ここでも、神様が「近寄り難い光の中に住まわれる方」とあります。 G その「太陽より明るく輝いて」「近寄り難い光の中に住まわれる方」の光に遭遇したサウロは、その「まばゆい光」「強烈な光」に打たれて地に倒れました。そのことは、「自分は神に従っている正しい人間だ」という自負以外の何ものも持ち合わせていなかった「自信家」のサウロが、実は、神様に逆らっている「無知な者」であることに気づくように、神様が敢て彼を「打たれた」ということでした。 H そして、厳かな声が響きました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と、彼がそれまでに聞いたことのない厳かな声が聞こえてきたのでした。ここで、「サウロ」ではなく「サウル、サウル、…」と呼ばれていますのは、イエスが日常語として使いなさった「アラム語」の発音が用いられているからです。 I サウロにとっては生まれてこの方、初めて、主なる神様によって自分の名前をこのように2回も、しかも、日頃使う「アラム語」で「サウル」、「サウル」と呼ばれのです。 私たちも「〇〇〇さん」「〇〇〇さん」と2回も呼ばれる時は、大変改まった重要な要件の時ですね。この時、サウロにとっても、とても重要な出来事、彼の「人生、生涯の新しい起点」、「彼本来のスタート地点」と立つことになったのです。何故なら、生まれて初めて、生ける真の神様から御声が掛ったのですから。サウロは、生涯この出来事をしっかりと心に留めていたことでしょう。 【4】「羽化への苦悩」復活の主イエスとの出会い @ さて、サウロの姿を続けて見ていきたいと思います。この時、光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」とおっしゃる方が、誰なのか?・・・・・・当時のサウロは、その方を知りませんでした。それで彼は、光の中から語り掛けなさる御方を知ろうとしました。 A 次の「9章5節〜6節」には、こうあります。 「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」 B サウロは、「イエス」という名前を聞いて驚嘆したことでしょう。ビックリしたに違いありません。何故なら、サウロにとって (1)呪いの木である十字架に架かって死んだはずの、あの罪人の「イエス」。 (2)学問も何もない愚かな群衆が盲信していると思っていた、あの「イエス」。 その「イエス」という御方、しかも十字架で死んだはずの「イエス」が生きておられて、 (1)近寄り難い光の中から、「サウル、サウル」と2回も自分の名前を呼ばれた。 (2)「イエス」という御方は、彼らクリスチャン言う通り、墓の中から復活されていた。死人の中から甦られていたのだ! C 更に、その御方は「サウル。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とおっしゃたったのでした。この言葉を聞いて、サウロは思ったことでしょう。 「私は、今まで、律法も聖書も知らない『無知蒙昧(むちもうまい)の愚かな群衆』であるクリスチャンの言い分など、デタラメで、何の意味もないものだ。いや、主なる神様を冒涜するものだと、決めつけていた。そして、彼らを改宗させるために、苦しめ、傷つけ、投獄し、命まで奪って殺害してきたのに・・・・・・・・、何と、その事が、光の中に住まれる『イエスという御方を迫害すること』だったとは・・・。私は、何という愚かなことをしてきたことか・・・・・・。」 D サウロは、「今まで考えてきた事が、全て、間違いだった。」と悟ったでしょう。その事を知らされて、「一切が無に帰した。終わりだ。」と思ったことでしょう。もう、何もかも考えられなくなった「茫然自失のサウロ」となったことでしょう。 だって、サウロは「自分の考えは絶対に正しい。神様の側にあると思っていたのに、自分の今までやってきたことは全て間違っていた。・・・何ということだ!」 そのような思いに、彼の心は潰れそうになっていったに違いありません。 E ですから、主イエスは、この時、混乱し憔悴しているサウロに出来る「最小限の事」をおっしゃいました。 「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる。」 主はこの一つの事だけを、この時サウロにおっしゃったのでした。次の「9章7節〜9節」にはこうあります。 「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」 F 目の見えなくなったサウロはダマスコの町に連れて行かれ、三日間「食べも飲みもしなかった。」・・・いえ、あまりのショックに、「食べも飲みも出来なかった」、「何も、喉を通らなかった」のでしょう。「自分は正しい」と思って人殺しまでしてしまって、もう後に戻れないのに、それが「完全な間違いだった」と分かったのですから。 G その上に、目の見えない真っ暗闇の、盲目の三日間。それはサウロの心に、「数々の思いが入り乱れる時」でもあったでしょう。サウロは故郷の「タルソスの町」で生まれてこの方、自分のユダヤ教徒としての歩みとそのあり方について振り返ったことでしょう。「それで良かったのだろうか?」と考えたことでしょう。またユダヤ教信仰の故に、連日厳しく迫害した「キリスト教会」について、その「キリスト教信仰」について深く考える時間が与えられたことでしょう。 H 更に、サウロにとって最も大きなこと。彼の心の中に深く影をおとし、苦しめたことは、「あの十字架に架けられて、呪われているはずの『ナザレのイエス』という方が、すでに復活して、生きておられ、しかも近寄り難い光の中から自分を呼ばれた」という事実に、彼が真正面から取り組まなければならなくなったことでした。それどころか、この復活された「栄光のイエス」を迫害してきのだと指摘されては、「自分は、もう取り返しのつかない大きな誤解をして、大きな罪を犯し、人殺しまでしてしまった」と深く悔やんだことでしょう。これらの思いがサウロの心に入り乱れ、悔いくずおれたに違いありません。 I でも、この「悔いくずおれたサウロの心」こそ、実は、主なる神様からの「最も尊い賜物」、神様が与えてくださる「最高の贈り物」です。 人間は中々、自分の罪を認めません。心から「自分が悪かった」と思うのは、実は、主なる神様からの「最も尊い賜物」、「最高の贈り物」なのです。長年歌い継がれてきた有名な「讃美歌」の「239番」に「神の招き」というのが有りますが、その「第1節」に、「さまよう人々、たちかえりて、 あめなる御国の 父を見よや。罪とがくやめる こころ(心)こそは、父より与うる たまものなれ。」とあります。 J 神様与えて下さる「恵み」「驚くばかりの恵み」は、この「罪とが悔やめる心」から始まるのです。「罪を認めて、本当に申し訳なく思う」「認罪(にんざい)の恵み」こそは、当座は重苦しく感じられますが、そこから祝福された生涯が始まるのです。それは「父なる神様に与えられた賜物」「最も尊い賜物」なのです。 K 更に聖書は、またもう一つ「人が自分の間違いを認めて、ご免なさい。」と告白する心が、神様が最も喜ばれる「最高の捧げ物」であると記しています。旧約聖書にある「詩篇51編18節、19節」にこうあります。 「もしいけにえ(生け贄)があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえ(生け贄)は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」 神様が最も喜ばれる捧げ物とは、「人が自分の間違いを認めて、ご免なさい。」と告白する「打ち砕かれ悔いる心」なのです。それは、何ものにも優って神様の喜ばれるものなのです。 L サウロはこの盲目の三日間、視力を失い真っ暗な中で過ごしましたが、この「三日間の間」に、彼は、「何が、神様の御心で神様に喜ばれる事であり、また何が自分の罪で神様を悲しませることなのか?」をハッキリと悟らせられたのでしょう。 【5】「羽ばたき始める蝶々」立ち上がるサウロ @ そんなサウロを主なる神様はしっかりと見守っておられました。そして、その時のサウロに最もふさわしく必要な人物を備えらたのです。次の「9章10節〜12節」にこうあります。 「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』」 A 「アナニア」という人は、ダマスコ在住の主の弟子でした。この「使徒言行録」の「22章12節」には、アナニアのことが詳しく記されていましてこうあります。 「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」 彼は、確かに評判の良い人望のある「ユダヤ人クリスチャン」でしたが、それ以上に、この「アナニアの特徴的な事」は「主なる神様との本当に親しい交わり」を持っているということでした。 B 「9章10節」の中程にこうあります。 「幻の中で主が、『アナニ』」と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。」 彼は主なる神様の前でいつも生活をしていて、一言「アナニア」と名前を呼ばれるだけで、「主よ、ここにおります」と、即座に答えることが出来る人物として、実に素晴らしく幸いな信仰生活を送っていたクリスチャンでした。 恵まれた信仰生活は、幸せな結婚生活と同じように、呼べばすぐに応えられる親密な、神様の私たちの関係のことです。 C 主なる神様はそのアナニアに対して、「今、罪を悔い、赦しを求め、救いを求めているサウロ」のところへ行くように命じられたのでした。この時、そのような敬虔な、神様と共に生活しているアナニアですから、「はい、主よ、すぐ行きます。」と答えると思うのですが・・・・、そうではありませんでした。アナニアも、また、私達と同じ「弱さ」を持った信仰者でした。目の前の状況に翻弄される「弱さ」を持った信仰者でした。次の「9章13節、14節」にはこうあります。 「しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』」 D 悪事の限りを尽している「教会迫害者サウロ」という情報を得ていたアナニアは、「サウロ」に良くしてやって仕えることは出来ませんでした。でも主なる神様は、そのアナニアに「サウロ」についての「神様の御心」を示されたのでした。逡巡し、ぐずぐずしているアナニアに対して「神様の御計画」が示されたのでした。 私たち人間は、先が見えて前向きに予想できると安心します。この時、心配し、恐れたアナニアに、神様がこのサウロを用いてこれから行おうとされている「キリスト教の世界宣教」の遠大な御計画が示されたのでした。 E 次の「9章15節、16節」にこうあります。 「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」 F 悪事の限りを尽くして来た「教会迫害者」から、一転して救い主イエスの聖名を異邦人や王やイスラエルの子らに伝える「神の選びの器」がサウロであり、そのサウロの「伝道者としての苦闘」が明らかになりました。その「主の言葉、御言葉」で、それまで躊躇(ためら)っていたアナニアは主に従い、動き出しました。 目の前の困難の大きな山に打ちひしがれ、「どうしようか?」と躊躇(ためら)い、逡巡(しゅんじゅん)する信仰者にとって、主から語り掛けられる「聖声」、現代なら「聖書の御言葉」、そして、それによって示された「主の御心」は、全ての困難を乗り越える勇気と、問題の解決への道を選び取る判断力と、一歩前へ踏み出す力を与えてくれます。 G次の「9章17節」にはこうあります。 「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』」 H 主なる神様は、「罪を悔い、その赦しを求め、救いを求める」サウロの許に、御自分の忠実な使者アナニア、「御言葉に従うアナニア」を遣わされました。そして、罪を悔いているサウロに対して、「赦し」と「救い」の確かな証拠として、 (1)視力の回復、 (2)そして、聖霊(神の霊)の満たし が与えられるようにと、アナニアに「按手の祈り」をさせなさったのでした。 I するとサウロは、即座に回復しまして、「目からうろこ(鱗)のようなものが落ち」て、視力が回復しました。光が見えただけでなく「回復と救い」を確信できたのでした。まさに「目から鱗」でした。 世間で「目からうろこ(鱗)だ」とよく言われますが、実は、聖書のこのサウロの開眼の記事が出典と言われています。それほどサウロの回心を示す「開眼」は有名です。 J そこでサウロは、「罪の赦し」と「古い罪深い生涯に決別して、新しいクリスチャン生涯」の始まりを証する「洗礼(バプテスマ)」を受けました。次の「9章18節、19節」にはこうあります。 「すると、たちまち目からうろこ(鱗)のようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」 K この時、サウロは、 (1)真っ暗闇の「地獄の苦しみ」、「罪責感に押し潰される苦悩」から、明るく光り輝く「神の国に入れられた喜び」。 (2)全ての罪が赦された「喜び」。主なる神様の許に立ち帰ることが出来た「喜び」。 それらの「喜び」に溢れたことでしょう。 L それと共に、自分の犯した「恐ろしい罪の数々」。既に、神様に赦されたとは言え、その「罪の数々」を思い出して、主なる神様の「大きな大きな憐み」を心から感謝したでしょう。 後に、「使徒パウロ」とされたサウロは、その神様の「大きな大きな憐み」を感謝して、こう告白しています。新約聖書の「テモテの手紙第一、1章13節〜15節」にこうあります。 「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」 【結論】「おわりに」 @ 元「教会迫害者サウロ」、また、後の「使徒パウロ」に与えられた主なる神様の、大きな「憐れみと恵み」の数々は、彼をして、全時代、全世界の「ベストセラー作家」「まぼろしのノーベル文学賞作家」に押し上げる数々の手紙を書かせました。それが、全世界のベストセラー「新約聖書」の中の「13の手紙」です。彼の手紙によりまして、何十億、何百億、何千億もの人々が慰められ、励まされ、間違った道から永遠の祝福の道へと導かれてきました。 A 現代を生きる私たち一人一人にも、サウロに注がれたのと同じ「神様の恵み」が注がれています。あなたもその「恵み」を得なさるために、一歩、神様の側に踏み出してみませんか。そして、新しい生涯へ進んでみませんか。 B 「永遠のベストセラー」である「聖書」の言葉が語られている、お近くの「キリスト教会」にお越しください。あなたの、その「一歩」は、新しい生活、新しい人生にあなたを導くことでしょう。 お近くの「キリスト教会」では、あなたをお待ちしています。ぜひ、お気軽にご来会ください。 |
深谷西島教会 竹内紹一郎牧師 (たけうち しょういちろう) |
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