2013年10月のみことば


神に取り囲まれる

主に依り頼む人はシオンの山。
揺らぐことなく、とこしえに座る。
山々はエルサレムを囲み
主は御自分の民を囲んでいて下さる。
今も、そしてとこしえに。
                  (詩編125篇1〜2節)

 詩編は祈りと讃美があふれています。イスラエル民族の信仰の言葉です。そして、時には神にきわめて率直に思いを注ぎ出す言葉があります。その率直さは時には「不遜」な響きさえ感じられるほどです。それほど神への思いを表す内容がそこにあるのです。詩編の作者たち、古い時代からの伝えられて来たその祈り、それは神との関係を求め、また信じる信仰が表されているのです。

 125編の詩人は確信しています。「主に依り頼む人はシオンの山」である。山がそびえ立ち、動かされないように「揺らぐことなく、とこしえに座る」と告白しているのです。とはいえ、この詩人の実際の状況はどうだったでしょうか。

 この詩編の成立がどの時代であったか、ある旧約聖書の専門家はバビロン捕囚の後の時代ではないかと推定しています。つまり、イスラエル民族が国として滅んでしまい、他の民族の支配下にあったとき、この詩が作られている可能性があるというのです。そうだとしたら、この詩人は揺り動かされている真っ只中にあることになります。他民族の支配を受けるということは厳しいことです。自分たちのどのようなものであるか、わからなくなるということでもあるのです。

 イスラエル民族にとっての主なる神に依り頼むということから離れた結果、揺さぶられ、自らの国を失うことになった。それがバビロン捕囚という出来事です。結果として他民族の支配下におかれる状態になったのです。このことで125編の詩人は自らがどのような中にあるのか、深くおのれを顧みたのではないでしょうか。自分を取り囲む状況は目に見える状態では、期待はずれであるというしかない。でも神の都であるエルサレムが山々に囲まれているように、「主はご自分の民を囲んでいて下さる/今も、そしてとこしえに。」と、この詩人は神の見方で自分の状況を見つめ直しているのです。

 信仰的な見方、それは神がどのように世界を見ておられるかを自分の視点とすることです。もちろん人間に過ぎない者が神の視点を持つことができるわけではありません。しかしながら、創世記の天地創造の記述にはこうあります。「神はお作りになったすべてのものを御覧になった。みよ、それは極めて良かった」(創1:31)。極めて良いものとして世界はまず作られた。神はそのような見方をしようと望んでおられるのです。そうでなければ御子主イエス・キリストが地上に来られ、十字架の上に罪のあがないをなさろうという神の計画がなされるはずはありません。わたしたちを囲もうと神はして下さる。それこそが真実の知らせです。

 しかし、わたしたちはふだん、この知らせに心が向きません。自分たちを取り囲む様々な出来事にさえぎられてしまい神のよき御心に囲まれていることに気づくことができないのです。上からの視点、神の御心は何か、それを思い巡らすために何が必要でしょうか。それはかつての信仰者たちを思い起こすことでしょう。

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。神に取り囲まれているというのは「証人の群れに囲まれている」ということです。この証人たちはわたしたちにささやいています。「わたしも八方ふさがれたようなことがあった。でも神はわたしを心にかけてくださった。だから心配するな」と。聖書の中に、また2000年の教会の歴史に苦難を味わった人々がいました。それでも信仰の見方を手放さないで、神が自分を気にかけ囲んでいてくださるのだ、ということに立ってきたおびただしい証人がいます。詩編125編の詩人もまた、困難の中にいる自らを自覚しつつも神を見上げています。

 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2a)
 神を、主イエスを見上げましょう。その時、わたしたちは神の御手の中にいる自分を発見するでしょう。主イエス御自身がわたしたちを励ましてくださることに立ち続ける幸いをともに味わいましょう。
秩父教会 都築英夫牧師
(つづき ひでお)




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