2013年11月のみことば

神の愛は無限です

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
    一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
                  (ローマの信徒への手紙8章31〜39節)

  「ローマの信徒への手紙」第8章の最後は、この手紙のクライマックスです。パウロはここで、神の愛の偉大な力を語り、神の愛を賛美しています。

 彼は申します。神が私たちの味方となって下ったと。その確かな証拠がある。主イエスの十字架がそれだ。その味方となって下さった神が、今、厳しい地上の旅を続ける私達に、御子プラスすべてのものを与えて下さっている。全ての事とは、主イエスに従う者が地上で体験する 全てのことです。感謝の日々と共に試練の日々もその中に入ります。耐えられないような試練の中にあっても、私達はそれもまた、私達の味方である神が下さったものと受け止めることが出来るのです。全ての事が、御子を下さった神の愛の中にあると信じるからです。そして実際、私達は試練の最中で、試練の中に神がセットして下さっている神の恵みを見出す事が出来るのです。

 これらはパウロ自身の経験から与えられた確信です。「だれが神に選ばれる者たちを訴えるでしょう」。彼は主イエスに従う故に、同胞から裏切り者と度々激しく訴えられました。何度かその命を狙われました。また「疫病のような人間」と非難され嫌われました。また、この世の人々からは、世を混乱させる者と して、厳しく裁かれ、犯罪人のように鞭打たれ、獄に何度も入れられました。

 しかし、彼はその試練の中で彼を支えた確信があります。それは自分を訴え、正しく罪に定め裁くことが出来る方は神のみ。自分はこの神のみを恐れる。しかしその神がこの自分の罪を担って十字架に掛かり、よみがえって完全に赦してくださった。しかもその方が今、神の右に座してこの自分のために執りなしの祈りを続けて下さっていると。これがパウロの確信であり、また私たちの確信であります。

 時に私たちも主イエスの側についた者である故に訴えられます。第1に、サタンからの告発を受けます。その告発は筋が通っており、ついつい本当の事だと思わされます。その告発は私たちの一番痛い所をついてきま す。この告発に耳を傾け、サタンと対話をしている内に、私たちの信仰の確信は失われ、信仰の喜びは消えて行きます。

 第2に、私たちは契約の箱に入った、神の恵みに包まれた律法ではなく、「裸の律法」によって告発を受けます。それが「神の律法」だという権威をもって迫って来ますため、私たちを苦しめます。「なすべきことがなされていない」。お前は傲慢だ、愛が無いと責められます。

 第3に、自分の中にある信仰者の理想像が自分を責めます。あのような立派な信仰者に自分はなれない。お前の信仰は偽物だと。自分は失格者だと。

 そして、最後、自分の中にある「良心」が自分を告発します。真面目な信仰者には、自分を厳しく裁く悪い癖があります。自分で自分の首をしめるのです。自分で自分の弱さ、愚かさ、愛の無さや不信仰を告発します。もはや自分で自分自身を救えいないこということを知りつつも。その姿は溺れている人が、もがけばもがくほど水の中に落ちて行くのと似ています。その自虐的な信仰は不健康な信仰です。それらの告発を真面目に聞いている内に、信仰者としての喜びが失われてしまうのです。これは愚かな事です。パウロも「自分で自分を裁くことすらしません」(1コリント4・3)と申しています。

 この時大切なことは、パウロが教えているように、心を高く上げることです。私たちの信仰がなくならないように祈り続けて下さっている方を見上げることです。今日、私達と共に戦い、上から応援をして下さっている主イエスの言葉だけを聞けば良いのです。この方 が私達の祈りを聞いて下さって、神に届けて下さっているからです。この方だけが私たちの真実な支えであり、試みの日の避難所です。

 パウロは申しています。信仰者はこの世の人には屠殺場で殺される順番をまっている羊のように見えるだろう。まことに哀れな存在のようにみえるだろうと。死の順番を待つ哀れな羊だと。しかしわたしたちは、その厳しい試練の最中、死が迫って来ている最大の試練のなかでも、輝かしい勝利の喜びによって守られています。既に勝利を体験しているからです。その厳しい試練の最中、神の愛が自分を掴んで離さないからです。そして、捧げ物の羊のように、この自分の身体を、最後神に捧げることが大きな喜びなのです。この喜びは世の人には少しも分からず、また、この喜びは世の人から奪い取られることのない喜びです。

 あのステパノの最後の思い出して下さい。惨めな彼の最後、彼の前には天が開け、彼は上から立ち上がって彼を応援する主イエスの執りなしに支えられました。そして、主イエス・キリストの最後にならって迫害をするものたちのために祈り、証をするものとされたのです。私たちもこの神の愛を知らされた者として、この証人たちの後に従って歩んで参りましょう。
東松山教会 野村忠規牧師
(のむら ただのり)




今月のみことば              H O M E