2013年12月のみことば


御子に似た者となる


 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
                  (ヨハネの手紙一第3章1節〜3節)



  キリストの恵みと平和が、この説教をお読みになるあなたに、豊かにありますように。

 クリスマスが近づき、2013年も残り少なくなりました。西川口教会ではこの年、新しい命の誕生を祝いました。一方、地上の生涯を終えた人との別れもありました。今年9月、89歳で神のみもとに召されたTさんのことを紹介させていただきたいと思います。

 Tさんが信仰に導かれたきっかけは、ご主人の葬儀でした。約10年前、80歳を目前にしたとき洗礼を受けられました。高齢のためなかなか礼拝に来られませんでした。ときどき訪問してお話を伺ったときには、「信仰のことはよく分からないけれどよろしく。わたしの葬儀のときもどうぞよろしく」と頭を下げられました。晩年は寝たきりの日々が続きました。老いと病との日々に耐え、神のみもとに召されました。

 今年の11月のTさんの納骨の折に、わたしは次のような説教をしました。

 “Tさんがまだお元気でいらした頃、お訪ねしてお話を伺いました。その中で「主人はわたしを大事にしてくれた・・・」と幾度となくおっしゃったことが心に残っています。それはまことに幸いなことだと思いました。時が来て、「主人の信じた神に、お任せしよう」と決断されたのではないかと思うのです。その決断は良いものでした。
 
 
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 洗礼を受けるとは、神の子とされること、天地万物を造られた父なる神の愛の中に生きることです。人間の親と子の関係でも、子は親の愛の中に生きるのが本来の姿です。神は、神の子と呼ばれる大きな幸いの中にTさんを招いて、救いの中に入れてくださいました。聖書が語る救いとは、わたしと神との関係が回復すること。わたしと神との間に平和が築かれ、平安の中に生きていけることです。
 納骨が終わると、教会の葬儀は終わります。もしかするとわたしたちの中に、このような問いが起こるかもしれません。「人は死んだらどうなるのか。愛する人はどこに行ったのか」。聖書はこのように語ります。

 
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

 聖書には死後どうなるかは、ほとんど語られておりません。ここに、どのようになるかは、わたしたちにはまだ示されていません、とあります。つまり「わからない」と言っているのです。しかし、知っていることはあると、続きます。こう語ります。

 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。

 教会、すなわち神の子とされた者たちは、この信仰の知識を持っている、というのです。「御子」とは、十字架に命をささげ、死んで墓に葬られ、三日目に死者の中から復活された主イエス・キリストです。このキリストの尊い犠牲によって、わたしたちと神との関係が回復されたのです。洗礼を受けるとは、このキリストによって備えられた神との和解を信じ受け取ることです。信じた者は神の子と呼ばれます。よみがえられたキリストは天に昇り、神の右の座におられます。「御子が現れるとき」とは、キリストが再びお出でになってすべての人を裁かれる、歴史の終わりのときです。そのとき、神の子とされた者たちは御子に似た者となる、Tさんもまた、御子に似た者となるのです。

 わたしたちが御子に似た者となると信じられるのは、キリストがわたしたちに似た者となってくださったからです。主イエス・キリストの歩みは、人間と似た者になってくださる歩みでした。もうすぐクリスマスのお祝いのときがやってきます。神が人となり、生まれてくださった。クリスマスの出来事です。

 やがて、神の定められた時に、主イエスは十字架に死なれました。お体は墓に葬られました。主イエスがわたしたちと同じように墓に入ってくださいました。ですから、死と葬りの道にも主イエスが先立ち、伴ってくださるのです。神の子とされた者たちは、死においても埋葬においても、主イエス・キリストと共にあるのです。

 
そのとき御子をありのままに見るからです。

 キリストの復活が体をともなう復活であったように、わたしたち信仰者は必ず復活する時が来ます。信仰者は死の力に捕らえられてはいません。復活のいのちに起き上がる朝を迎え、よみがえりのキリストをありのままに見る日が来るのです。

 キリストはわたしたち人間を愛し、似た者となってくださいました。ですから、キリストを知り、信じ、愛された者たちは、自分たちが御子キリストに似た者となることを確信できるのです。・・・“ 
 
 Tさんの葬儀や納骨にはご親族の方が大勢いらっしゃいました。Tさんご夫妻が面倒見の良い方だったからです。Tさんは、生きている時は数えるほどしか教会の礼拝にお出でになれませんでしたが、葬儀の礼拝には多くのご親族の方々に福音を届けるキリストの証人として用いられました。
 
 
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。

 Tさんも御父に愛された神の子でした。Tさんの生涯のどの時点においても、キリストはTさんに似た者となっていてくださいました。Tさんがまだ神を知らないで罪の中にあったときも、罪人の一人に数えられたキリスト、罪人の仲間になってくださったキリストが共におられたはずです。Tさんが寝たきりの晩年の日々も、その姿が、十字架でくぎつけになられたキリスト、身動きできず耐えておられた十字架のキリストと重なるのです。

 御子は、わたしたち人間に寄り添い、わたしたちに似た者として、この世に生まれました。御父はわたしたちを愛して御子を世に遣わし、御子を信じる者を神の子とし、御子に似た者となるという喜ばしい希望を与えてくださいました。
クリスマスはこの父なる神の大きな愛を受け取るとき、この大きな愛の中にいる自分を見出すときなのです。
西川口教会  金田佐久子牧師
(かねだ さくこ)




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