2014年1月のみことば

命の投資先

  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
                  (マタイによる福音書13章44〜52節)

 人は誰しも、より良く豊かに生きるために置かれた場で学びや仕事に携わり、様々な可能性にかけて経験や財産を積み重ね、多大な時間や情熱、努力を投資していることを思いますが、今朝は私たちの命を創り、主イエスの命によって贖い、永遠の命を約束してくださった主なる神の御前にあって、私たちに地上で貸し与えられている限られた時間や可能性を、まず、どこに注いでいくのか、共に立ち止まって天を仰ぎつつ、思い巡らしてまいりたいと思うのであります。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教を開始された主イエスは、目には見えない天の御国・神の国の奥義を、身近な生活の事柄にたとえて聞く者にわかりやすく教えてくださり、神の支配される領域・天の御国とは、死後の世界だけではなく日常生活の中にも隠されていることを教えてくださいました。今朝のたとえ話において、農夫は黙々と畑を耕す中で埋められていた宝を見つけ、真珠の商人は良い真珠を延々探し求める中で高価な真珠を見つけ、漁師は何度も湖に網を投げ降ろす中で良い魚を集めました。これらの人たちは、非日常の中で「棚からボタ餅」的に宝を見出したのではなく、繰り返される日常の営みの中で、隠されていた宝を発見したことを思います。

 このような日常の中に隠された宝について、1つの逸話があります。ある彫刻家が、聖母マリアを彫るという自分の長年の夢を実現するため、材料とする最上の白檀を探して回ったそうですが、やがて実現できそうもないと思って絶望し、あきらめようとした時、彼は薪となる樫の木を材料にして聖母マリアを彫るように夢の内に示されたそうです。さっそく燃やしてしまうありふれた薪を用いて製作に取り掛かると、彼は、最高傑作の聖母マリアを彫り出したそうです。この話を残したJ. R. Millerという人は「人は、聖母マリアを彫刻しようと、特別な白檀の木を探していながら、材木置き場で蹴っ飛ばしている、ありふれた樫の木の薪の中に、美しい聖母マリアが隠されていることに気づかないでいる。」と語っています。

 天の御国に到る「狭い門」とは「見落とされやすい門」なのかもしれません。今朝のたとえ話に登場する農夫、商人、漁師も、特別な場所で、特別な気持ちで宝を獲得したのではなく、自分が置かれた場で、自分に与えられた役割に留まり、自分の力を淡々と注ぐ中で宝を見出したことを思う時、天の御国とは、この世の歩みを終えてから出発する場所に限らず、実はありふれた日常生活の隣人との交わりの中で、求める者、探す者は必ず見出せる所に、この世の損得や勝ち負け、貧富の差になど左右されない永遠の神の約束として、そっと埋められていることを思います。

 「1度しかない、1つしかない自分の人生を何に費やすのか」私たちの罪の身代わりに十字架に架かってくださったほどに私たちを愛してくださっている主イエスは、私たちのささやかな信仰や献身をも忘れられません。主イエスの福音にこそ、私たちの全人生を注ぎ込む価値があります。今週も遣わされている日常の中で、私たちを生かしてくださっている主なる神と、共に生かされている隣人に仕えることによって、自分に与えられている時間や可能性、命を、死で終わりではない永遠の領域に投資しつつ、日常の義務や出会いの中にそっと隠されている天の御国をコツコツ探し求めて参りたいと思います。
東所沢教会 指方周平牧師
(さしかた しゅうへい)




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