2014年2月のみことば

赦されて、赦されて

 まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼等を導き彼等の顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。
                  (ホセア書11章1〜4節)

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回まででしすか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をし始めたところ、一万タラントン借金している家来が王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て。自分の百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て、非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人ひとりが、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
                  (マタイによる福音書18章21〜35節)

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼等を助け、旅人をもてなすように務めなさい。あなた方を迫害する者のために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
                    (ローマの信徒への手紙12章9〜21節)

 ▼旧約の時代、イスラエルにホセアという預言者が現われました。ホセア書1章によると、南ユダ王朝のウジア王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキア王の4代に亘る時代、北イスラエル王朝ヤロブアム王の時代に、主に北イスラエルで活動した預言者です。ヤロブアム王の時代のイスラエルは、ヤハウェ信仰が衰退して、宗教的、信仰的にかなり堕落、混乱していた時代です。聖書、とりわけ旧約聖書は、この世の王に対してはかなり辛辣な評価しかしませんが、ヤロブアム王は悪政を敷いた王としてその代表格として描いています。イスラエルの預言者の信仰から見るならば、イスラエルの不信仰は限りなく、神の怒りは爆発しそうでありました。

 「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇きそこに住むものは皆、衰え果てて野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。(ホセア4:1〜3)

 この預言は、ホセアにしてみると、預言者としての本音であり、神ご自身の意志でもありました。このようなイスラエルは滅び去るばかりだ!神ご自身がイスラエルを告発し、神ご自身が裁き、滅ぼされるのだ!と。

▼総じてイスラエルの預言者たちは、王や祭司や指導者たち、そして民に対しても厳しい存在です。イスラエルは元来、唯一の神ヤハウェのみを神として崇め、信じ、従ってきました。ところが、パレスチナという土地は何時の時代も、異国の王たち、軍隊、商人たちがいなごのように移動して、その度に支配が変わり、異国の宗教が持ち込まれました。イスラエルの宗教は厳格な唯一神教です。その倫理性は高く、誠実に神の律法に従わなければなりません。ところが持ち込まれる異教の宗教の多くは自然宗教であり、その神々は豊穣の神です。豊穣の神々は人間にとって非常に魅力的でありましたので、イスラエル人は異教に心を惹かれるのは、ある意味、当然なことであったのです。

 預言者たちはそのようなイスラエルの姦淫のような不信仰を厳しく批判し、信仰を刷新するように求めました。ですから歴代の預言者たちの預言の多くは厳しいイスラエル批判に終始しています。ホセアも例外ではなかったのです。ところが、ホセアには深刻な家庭の問題がありました。それは妻のゴメルが姦淫の罪を犯していたというものでした。自分が語っている預言に従うならば、彼はゴメルを離婚し、石打ちのリンチに処することに依って、自らの預言に対して誠実であることを証明しなければならなかった筈でした。しかし、ホセアは実はゴメルを愛していました。ゴメルと自分の夫婦としての関係を、改めて正常な関係に戻すことが、預言者として必然である、と感じたのです。その関係の中に神の意志が表されているとホセアは感じます。それはゴメルを赦し、受け入れ、再度夫婦として歩み始める、というものでした。

▼ホセアの夫婦関係は、イエスの母マリアと父ヨセフの関係にも見ることができます。マタイはクリスマス物語を書いたとき、ホセアのことが念頭にあったのではないかと私は思うのです。破綻した夫婦を再び結合させるには、破綻させた愛欲の力を超える強い力が必要です。それは何でしょうか?「愛」、しかもそれは相手にそれを求めるのではなく、相手に条件をつけないで、自分の方から差し伸べる自発的な、いや、聖霊によって与えられる、神のよって保障された愛でなければならないのです。そうでなければ再結合は不安定なものになり、すぐ壊れやすいものに終わってしまうのです。

▼ホセアは自分たちの破綻した夫婦の状況の中に、神の声を聞くのです。
「行け、淫行の女をめとり淫行による子らを受け入れよ。」(ホセア1:2)
 しかし、ホセアの心の中にはまだゴメルを赦せないわだかまりが残っていました。
 「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはや私の妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を乳房の間から淫行を取り除かせよ。」(ホセア2:4)

 でも、ホセアの心には、愛人に捨てられたゴメルの現実と思いが伝わってくるのです。憐れみの思いは捨てられないのです。
 「彼女は愛人の後を追っても追いつけず尋ね求めても見出せない。そのとき、彼女はいう。「初めの夫の許にかえろう。あのときは、今より幸せだった。」(ホセア2:9)
 あの、豚飼いに身を落とした放蕩息子の呟きを感じませんか?
 ホセアが思いをめぐらせていたとき、神は再び呼びかけます。
 「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」(ホセア3:1)

 そこで、ホセアは奴隷の身に落ちていたゴメルを銀50シェケルと大麦1ホメルと1レテクを支払って買い戻すのです。
〔注〕 シェケル銀貨 当時の流通ペルシャ銀貨で約5.6グラム。50シェケルは銀280グラム 
    かなりの高額だったと推測されます。
    ホメル 200〜300リットル(時代によって変動したそうです)
    レテクは1ホメルの2分の1

 「わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまたおまえのもとに留まる。』」(ホセア3:3)
 ホセアはゴメルをふたたび自分の妻として買取り(贖い)、そこに神の愛の何であるかを悟り、実感するのです。
 神のみ心とは「私が喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くすささげものではない。」(ホセア5:6)

 あの、出エジプトの出来ごとも、実は神の深い愛によるものだったのだと、ホセアは思うのです。
 「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出した。私は人間の綱、愛のきずなで彼等を導き彼等の顎から頸木を取り去り身をかがめて食べさせた。」(ホセア11:1〜4)

▼ホセアは神の愛を実証するために、自分たちの夫婦のきずなを固くすることによって示した、つまり預言したのです。「預言」とは未来の予測ではなく、神の言葉です。愛による再結合、難しく言えば契約の更新こそが、イスラエルがどのように不信仰に陥ろうとも成し遂げようとする神の愛なのだ、と自らの夫婦の有り様に依って実証するのです。

▼さて、わたしたちは今、マタイ18章の有名なたとえ話を読みました。
 ペトロがイエスのところに来て、兄弟が(我が友、我が家族)が私を裏切って私に罪を犯した場合、主よ、あなたは『敵を愛し、自分を迫害するもののために祈れ』と言われました。とすれば7回ぐらいは赦せばいいでしょうか。私としてはそれであなたが言う敵を愛することを実現した、いや、それ以上だと思うのですが。」
 するとイエスは 「いや、7を70倍まで許しなさい。」と言われます。

 7の70倍、とは算数的には490回です。490回とは数えられる限定的な赦しではなく、限りなく、無限定に、完全に、というニュアンスです。そしてイエスはあの「たとえ」を語るのです。
 「ある王が…」と話し始められました。イエスは「罪」を「借金」にたとえます。マタイはしばしば「タラントン」というお金の単位のことを語ります。この言葉は現代では「タレント」という芸能人に用いられますが、元来はお金の単位です。タラントンは通常の生活で用いられるお金の単位ではありません。大抵は商売の取引に用いられます。私たちが生活で用いるお金はせいぜい、何十円、何百円、何千円、何万円程度のことです。何十万円というと、既に生活実感を越えます。聖書の度量衡表によると、1タラントンはギリシャ通貨で6,000ドラクマに相当するとされています。1ドラクマは1デナリオンと等価です。銀4.3グラムだそうですから、私たちが使っている100円玉ぐらいの重さです。しかし、当時は労働者の一日、約10時間ぐらいの労賃に相当します。物価が今日とは異なりますから単純に換算できるわけではありませんが、現今の日本の価値感では8,000円から1万円ぐらいの値打ちでしょうか。仮に1万円とすれば1タラントンは6,000万円になります。6,000万円というと、私たちの日常的な金額をはるかに越えます。ましてや1万タラントンは6,000億円で、国家的な予算です。ということはもはや個人では扱えない膨大な金額であり、私が持っている家庭用の計算機では計算不能です。

 この王の家来がどういういきさつで王から借金したかのか、福音書には何も書かれていません。ともかくこの家来は膨大な借金を背負っていたのです。借金は必ず返済しなければなりません。その期日が到来し、王は返済を迫ります。王が債権者であり、家来は債務者です。家来はどうしたわけかその期日に借金を返済すべき資金を持っていませんでした。それで王はこの家来に妻も子供も、自分自身も売り飛ばして奴隷になり、その身代金で支払うことを求めました。現代でも強欲な金貸しに借りた金は、返すことが出来ないと知らぬうちに人身売買されて、未来永劫までも借金を返し続けるあり地獄に陥るケースがあるではありませんか。王の要求は金額的には、身売りしたところで間に合わないものなのですが、要するに命をかけて借金払いをせよ、という意味です。家来はとんでもない、奴隷にはしないでくれ、もう少し待ってくれたらなんとか借金を払うからとひれ伏して願います。すると王は「憐れ」に思って、なんということでしょうか、謝金を全額棒引き、帳消しにしてくれたのです。ここで、もう一つの重要なキイワード「憐れみ」が現われます。

 「憐れむ」という動詞は、ギリシャ語では「スプラングニゾマイ」と言います。「スプラング」とは「内臓」のことです。古代人は人間の感情や心の座は内臓にある、と考えていました。私たち日本人も、「胸が痛む」とか「肝が据わっている」などと内臓によって感情や気持ち、心を表現するのと全く同じです。焼肉屋で牛や豚のいわゆるホルモン焼きの内臓を「ガツ」と言いますが、ガツは「あいつはガッツがあるね」のガッツと同じです。元ぼくさーでタレントの「ガッツ石松さん」は直訳すると「内臓石松さん」です。「ニゾマイ」は「〜にする」。意訳すると、「私のはらわたは、あなたのはらわたとおんなじようになる」です。「共感」ということができると思います。

 王はこの家来の嘆き、辛さ、悲しみを深く感じ取られたのです。
 家来は借金を棒引きされたので大喜びで王の前を退出しますが、その道すがら、彼は自分の友人に出会い、この友人に100デナリオン貸していたことを思い出します。返済期日はとっくに過ぎていたことを思い出しました。彼は友人の首を絞めるようにして『お前に貸した100デナリオンを返せ!』と迫りました。友人は「待ってくれ、何とか返すから」と懇願します。しかし、家来はこれを承知せず、借金を返すまで、と友人を引っ張っていって牢に入れてしまったのです。
 これを別の仲間が目撃、王にことの次第を報告しました。王はこの家来を呼び出し、「不届きなヤツだ。お前がしきりに願うから借金を棒引きにしてやったではないか。お前の友人にもそのようにすべきではなかったのか。ではわたしも同じにしてやろう。お前の借金の棒引きは取り消しだ。お前も借金を返すまでは牢に入っておれ。」

 このたとえ話は、35節に書かれているように「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたにおなじようになさるであろう。」という警告が結論であるようにも思えますが、実は王がこの膨大な借金を棒引きにした「憐れみ」がメッセージの中心ではないかと私は思うのです。
 ホセア書に記された神は、本来はイスラエルの罪を厳しく糾弾するのですが、しかし、借金を棒引きにする王のように、そして淫行の妻と愛をもって撚りを戻すホセア自身のようです。

▼わたしたちは礼拝のたびごとに「主の祈り」を祈ります。その中の第4の祈り「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」を思いしてください。
 口語訳ではこうなっています。
 「わたしたちに罪を犯した者を、赦しましたから、わたしたちの犯した罪をお赦しください。」
「赦すごとく」が「赦しましたから」と完了形になっているのです。どちらの訳が正しいのでしょうか。
 マタイ福音書の「主の祈り」は 「私たちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっています。
 ルカ福音書では 「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆ゆるしますから。」です。

 ルカでは「負い目」が一部「罪」になっています。マタイのほうが元となっているでしょう。マタイは「罪」を「負い目」、まさに借金としているのですが、負い目は借金という狭い範疇には閉じ込められない感覚が秘められています。「赦す」とは借金の棒引きです。マタイでは、「私たちの負い目を赦してください、それは私たちが私たちに負い目のある人の負い目を帳消しにしたように」、となっているのです。
 私たちに負い目のある人は、私にとって私が帳消しにすることが出来、私たちが神に負っている負い目はとてもじゃあないが赦される可能性の全くと言っていいほどに無い、そういう負い目です。だけれども、神よ、私たちが友人に負わせている負い目は何とか帳消しにしましたから、そのように(条件ではなく、類比的に!)赦してください、と祈るのです。

▼「赦す」という日本語は、「緩やかにする」、きつく縛っていた縄目を「解く」という意味からきています。私たちの間柄に、何か穏やかで緩やかな空気(エア)があって、私たちの緊張(緊縛)が無くなり、寛容な気分が広がっている、ということです。それは私たちが、イエス・キリストの十字架の贖い(借金の棒引き)によって赦されていることによって可能なのです。私たちが自分の寛容な心に依って赦すのではありません。「赦されて、赦されている」、という喜び、嬉しさからもたされるものなのです。

 ホセアはそういう神の寛容を、自分たち夫婦の関係の中に見出すのです。そういう意味でホセアはあまたの預言者たちの中で、特異な預言者です。私たちが教会の預言者である所以(ゆえん)のものは、私たちの関係に、このような緩やかさ、広やかさがエアとしてある、ということなのです。他者をありのままに受け止める、受け入れることです。異人さんを見るような目つきが無くなる事です。!!

▼私たちが、今、ここで存在し、生きている、という事実は、私たちが私の関係者たちに、ほんとはなんらかの「負い目」を持っているのだけれども、互いに「赦されて」いるからにほかなりません。そして、根源的には神に、キリストの十字架の死のゆえに赦されていることによるのです。この「赦されている」という事実を「腹の底から感じなければ」安穏に生きることは難しいのです。とすれば、私達は互いに他者を「赦す」ことなしに、生きることは出来ない、のです。

 姦淫の罪にまみれたホセア・ゴメル夫婦における「赦し」、返せない借金まみれの家来と王における「赦し」にあらわされるような、キリストの十字架の「愛」に裏打ちされて、私たちは今、「生きる」人になっているのですから、これはわたしたちが他者を「愛する」ための十分なモチベーション(動機)になるのです。ルールとか、マニュアルだけに頼って生きていると、それは必ず自己破綻することになるのではないでしょうか。最後に引用した使徒パウロの言葉をじっくり味わってみましょう。
北川辺伝道所 櫻井義也牧師
(さくらい よしや)




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