2014年5月のみことば

復活の光の中を歩む

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
                    (マルコによる福音書16章1〜8節)

≪死の闇から救い出す主イエス≫
 御子イエス・キリストが死人の中からよみがえられたイースターの朝を迎えました。十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られた主イエスによって、世のすべての人々が罪の闇から救い出され、死に打ち勝つ命に生きる喜びにあずかることができるのです。

 この大事件と最初に出会ったのは、主イエスを尊敬するマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人(マルコ16章参照)となっています。この3人の婦人たちは、尊敬する主イエスの死の悲しみを引きずって墓を訪れました。それは御遺体に香油を塗るためでした。

 主イエスが埋葬された墓の入り口は大きい石によって塞がれていました。婦人たちにはとても動かすことができないものです。しかし、墓の入口を塞いでいたその重たい石は動かされていました。主なる神は婦人たちのために、その石を動かして復活された主イエスに出会う道を開いたのです。さらに、墓は人間の死の暗闇を現わすものです。墓の大きい石は人間の命を奪い、死の中に閉じ込める力を象徴していました。それゆえ墓の石が取り除かれていたのは、墓は死を閉じ込めておくことができなくなったことを現わしています。むしろ私たち人間が死の呪いに束縛されている状態から解放された姿を現しているのです。その大きい石を動かす力、つまり、死の呪いに束縛され、脅えている私たちを解放する力は御子イエスを死人の中からよみがえらせた神の愛にあるのです。婦人たちは、その空になった墓によって、主イエスの復活を知らされたのです。

≪主イエスの復活を信じなかった者≫
 主イエスの十字架の死を目撃した主の弟子たちは、あの婦人たちから、「主イエスは復活された」と、告げられてもすぐには信じることはできませんでした。むしろ、主イエスが十字架の上で死なれたことに脅え、死の危険がわが身に及ぶことを恐れて、エルサレムから逃げ出したのです。ある弟子たちは不安を抱えながら、エルサレムからエマオへ逃亡を計りました。あたかも死の陰の谷のような、希望のない暗闇の中を歩いていたのです。

≪死の虚しさを恐れる≫
 私たちも愛する者の死と向き合った時、死の恐れ、死別の悲しさがあります。愛し合い、支えあって共に生きてきた者を失った孤独の不安などに取り込まれて、希望のない暗闇の中に捨て置かれたように思います。そして自分の人生も希望のない死の暗闇の中にあると思い込んで、虚しい生き方になるのです。希望のない死の激痛は、新しい命が生まれる陣痛よりもさらに辛いものです。しかし、救い主キリスト・イエスはそのような私たちを見捨ててはいないのです。インマヌエルの主イエス御自身がその死の激痛を通って、復活して新しい命の希望をもたらしました。復活の主は、死の闇に陥っている私たちの内に愛の光を照らし、永遠の命を明らかにして、死を恐れることなく生きる者としてくださったのです。それは人間としてまったく新しい生き方、神の愛に生きる力となっていたのです。

≪神の愛の力は復活にある≫
 ヨハネによる福音書11章にはラザロの物語があります。人々は、愛するラザロの死によって悲しみと絶望の淵に立ち尽くしていました。それは「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか。」(ヨハネ11章37節)という言葉に表れています。主イエスは神の憐みに頼らず、死の力に打ちのめされて、絶望の淵に立ち尽くしている人々を見て、「心に憤りを覚え」(33節)、さらにラザロの姉妹であるマルタとマリアに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」と言われました。信じるというのは、自分を救い主に明け渡すことです。自分への拘りを捨てて、主イエスを信じて頼ることです。人生の最大の危機である、死においても、主イエスを信じて頼るなら、死の暗闇が打ち破られて、神の愛に生きる希望が与えられるのです。

≪神に愛されている者≫
 私たちは神にかたどって創造されました。私たちが生まれる前から「愛する子」と呼んでくださいます。この神の愛は、罪の支配からも、死の呪いからも解放してくださるのです。あのラザロを取り巻くマルタ、マリアの姉妹、そしてラザロを愛していた人々が、ラザロの死によって受けた不安と脅え、絶望の淵に立ち尽くしているときにも、神の愛は私たちの内に現実になっています。私たちが復活の主に結ばれ、死に打ち勝つ主の愛の力が働いているのです。

≪死を超えて生きる≫
 私たちは死と向き合い、そして学ぶことによって、死は神の愛の力に太刀打ちできないことを知ることができます。死よりも強い愛の力が、信じる者の内に働いているからです。私たちは神に愛された、「神の子」です。この神との強い絆が、私たちに生きる力と希望を与えるのです。ヨハネ福音書14章には「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。…。あなたがたのために(神の国に)場所を用意しに行く」と記されています。私たちは神の愛の中に生きるのです。死に勝利した御子イエスが神への道を開いてくださったのです。
鴻巣教会 川染三郎牧師
(かわぞめ さぶろう)




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