2014年6月のみことば

行いなさい

 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
              (フィリピへの信徒への手紙2章12〜18節)

 私たちは考えたり、祈ったり、願ったりして、今起きていることを解決したいと思うことがあります。また良い結果を未来に求めるものです。しかし、いつも良い結果がある訳ではありません。特に聖書をよく読むと、束縛されることもしばしばです。聖書の神は自ら行動される神、能動的な神で在られます。ですから、私たちがすがる前から、全ての事柄に応えて下さるという希望を抱くことができます。イエス様は、その働きの中でしばしば語られました。なぜ、疑ったのか?と。そうなのです。私たちは疑うのです。根拠のないものも、あるものも疑うのです。自分の望む結果と異なるもの、或いは異なりそうだと感じた時、全てを疑うのです。校則や様々な規則が強化され、生きるのが苦しい状況へと、閉塞感を持つようになります。

 では、信仰が強められる時はどんな時なのか?それは苦難または試練(試練=克服できるようにされた苦難)を乗り越えた時でしょうか?或いは期待していない第三者によって物事を解決できた時でしょうか?いや、私たちが神によって救い出されたと感じた時こそ、信仰は強められるのです。このために私たちは度重なる、未経験な困難と対峙しています。

 本日の聖句、12節13節に目を留めてみましょう。読みます。まず12節「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように務めなさい。」
 パウロはフィリピの教会の人々に従順であることを求めました。指導者であるパウロの不在の時はなお、一層受順であることを求めたのです。従順とは何か?聖書大事典では二つに分けて解説されています。一つは「聞き従う」であり、もう一つは「従う」です。

 「聞き従う」とは、信仰の行為です。それは、真理に対して、福音に対して、キリストに対して聞き従うことです。信仰と従順は互いに深く結びつきあっており、「信仰の従順」と呼ばれることもあります。救いは信仰の従順によって現されます。キリストご自身が正しい従順の模範です。なぜなら十字架の死に至るまで、神の意志を全うされたからです。また、「信仰の従順」は生活の中でも実際に行わなくてはなりません。なぜなら信仰者はキリストに従うように選び出された者だからです。

 次に「従う」を考えましょう。従うとは、キリストに従うことです。イエス様は信仰における生の創始者にして完成者です。イエス様の後に従うことで、新しい生のうちを歩むのです。イエス様ご自身が開いてくださった命への道を歩むために、私たちは忍耐と服従でもって従うのです。それを貫いた時、イエス様の弟子がそうであったように、私たちもイエス様と同じ道をたどることができます。
 これら二つの言葉、「聞き従う」と「従う」によって、私たちは従順の模範であるイエス・キリストにならって、それをまねて、後ろについていって、確かな応答をします。

 14節こそ、今日の主題です。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」不平も理屈も、神への背きです。私たちはただひたすらにイエス様の後ろについていくのです。はじめに、「疑う」ことを考えましたが、それは信じることの正反対でした。その応えが14節なのです。神は行いなさいと仰るのです。行いの中に神の業があふれるからです。キリストが数々の奇跡を行ったように、私たちもまた奇跡的な出来事、イエス様へのとりなしの祈りが聞き遂げられるように、奇跡に出会うことができます。

 15節16節「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」
 清い者の反対語は汚れた者です。この概念は旧約聖書から取り上げることができます。清い聖なる者という表現があります。それは神が聖なる者であって、そこにたどり着けるのは清い者なのです。この清さとは外的、内的、道徳的、儀礼的な清さが内包されています。一方、新約聖書ではイエス・キリストによって山上の説教で、心の清さが語られています。また病人つまり外的な汚れはイエス・キリストによって癒されることで清くなり、弟子たちはイエス様との交わりを通して清められます。例としてマタイ8章3節に「イエスが手を差し伸べてその人に触れ。「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は清くなった」とあります。

 また、神の子とは、神によって選び出された一人一人を指します。すなわち、私たち一人一人が神に受け入れられるような存在になるべきです。そのためには行いが大切です。御言葉を聴くだけでなく、それを行うのです。そうすることでますます神によしとされるのです。その良い行いを通して、この世のよこしまな状態は改善され、神を信じていない人々は神を信じるようになります。命の言葉とは、ヨハネ福音書に出てくる表現ですが、御言葉に宿る永遠の命のことを示しています。これは汚れによる罪から来る死に対して、清さから来る生と対比するもので、言葉だけの意味ではなく、私たちに生きがいを与えるような力強い神の励ましです。神に受け入れられた一人一人が行動においてこの世の人々をキリストに招くことができるならば、私たちは絶望することがなくなります。そして、私たちのために先に召されてとりなしておられる信仰の先輩方が、そのご生涯を通して証ししたことが無駄でなかったことになるのです。

 17節18節を読みましょう。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」
 いけにえとは、私たち自身を神に献げることです。これを献身と呼びます。私たち自身が神を喜ばせる土の器として、神によって選ばれ、神を喜ばせるのです。そのためには、パウロが語るように、例え血を流しても喜びます。この世に証しを立てるためには色々な困難があるでしょう。家族の無理解、職場の協調、信仰の継承など様々なことを思います。しかし、その犠牲は報われると神に保障されています。だから、私たちは力強い。乏しいところがない。汚れを十字架につけ、清くなる。神に喜ばれるために行動し、証しする。これらを通して、次の世代、またその次の世代に信仰を伝えていく。その喜びを隠すことなく大いに喜ぶべきです。喜ぶ姿をみた、おそるおそる近寄ってきた人々が、みな喜ぶようになるためです。

 神の愛は皆さんを強くします。強力な盾です。いじわるやあざけりをはねかえします。そして、私たちは神に頼り神を信じた故に神から受け入れられて大いに祝福されます。不平や理屈でどうにかなるものではありません。体験し、獲得するのです。神を信じた行いは必ず報われると。
毛呂教会 澁谷弘祐牧師
(しぶや ひろすけ)




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