2014年7月のみことば |
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」 (ペトロの手紙一5書7節〜11節) |
一生の間、リラックスしながら、幸せに暮らしたいという切実な欲望は誰にでもあります。このような心情があざ笑われるかのように、現実は私たちの期待とは違うことがあります。胸を痛くするような心配が常に影のようにつきまとい私たちの人生に暗い雲を与えます。 一体、世の中にある心配と不安はどこから始まっているのか?考えてみると心配と不安にも様々な次元があります。もちろん、各個人の性格や内容もそれぞれ違います。状況に対処する信仰的な姿勢にも違いがあります。だから私たちには、これらの差異を認識して対処する知恵が求められます。 神は、人間が心配しながら不信仰の中で生きることを少しも望んではおられないからであります。 1、 なぜ不安感を持たずにはいられないのか? リラックスしながら、幸せに暮らしていきたいという気持を強く持っていたとしても、その思いで不安感を取り除くことなどはできません。いくらしっかりとした希望を持っていても、また、良いことが多くなることを願いながら新年を迎えても、年末になると間違いなく、多事多難の一年だったという言葉を繰り返して述べるようになるのです。 たとえ生活に余裕があったとしても、体が丈夫で健康であっても、生活環境に恵まれ、人を羨むことがなかったとしても、完璧な仕事をこなしているとしても、逃げれられないような不安感と心配事が、波のように押し寄せてくることがあります。もちろん、それらのことは、だれもが全く望んでいないことです。 神から約束された祝福を勝ち取るために、特別な信仰と力強い信念を持って、屈せずに生きた族長ヤコブが、晩年になって、ファラオ王につきのように証言しました。 (創世記47書9節)ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」また、神の人モーセは、詩編90編9〜10節「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と語ります。彼らは、多くの問題や苦難の中に生きていたことをよく理解することができました。私たちはどうですか? 2、 なぜ問題を克服できないのか? 私たちは、聖書にある「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。」(ペトロの手紙一5書7節)という御言葉と接する。その度に、全ての心配を、皆、主に委ねようと誓います。しかし、無意識のうちに、不安感が先立っている場合があることを度々感じることがあります。それは、つまり不安感が完全には消えていないということであります。 私たちが生きている間は、心配を全くなくしてしまうことなどはできません。尾に尾が加えられるように、問題は発生し続けて行くからであります。根本的な問題は、問題自体ではなく、心配を克服する能力が無いことにあります。では、なぜ私たちはそのような問題を解決できず、問題に捕らわれてしまうのでしょうか? 一番目には、物質的な問題が潜んでいるからです。 貧しい人は、借金の利子を払いながら生活します。時には利子を返済するために、お金を借ります。信用を守ろうとすると、債務の元本も増え続けていきます。 それは、借金返済金以上の収入を得ることができないためであります。そのような人の多くは、汗を流しながら仕事をしたいと思っても、適当な就職先を見つけられず無職の状態で過ごすことになります。そして、一定の収入を得ることができないために、職に対する不満を持つようになります。貧困というものは、それほど恐ろしい敵であります。 それでは、金持ちの場合はどうでしょうか?財産があまり多くても問題は起きます。彼らは、時に睡眠をきちんととることができないこともあります。金持ちだからこそ、特殊な苦悩というものがあります。金持ちには金銭的問題はないはずなのに、実を言うと、貧しい人の生活のような金銭的問題を抱えている場合が多くあります。聖書は、「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い、満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」(コヘレトの言葉5:9〜11)と証言しました。 二番目には、肉体的な問題に縛られているからです。 アダムが罪を犯し、堕落することで、「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。」(創世記3:17b、19a)と、神が労働するように命じられました。汗を流すことは、大変なことであり、また苦しいことでもあります。 更に色々な種類の公害や有害食品、また、タバコや酒によって、病気を患うようになる場合もあります。その一方で、あまりにもよく食べ、肥満になったために病気にかかるケースも非常に多い。子どもたちでさえも栄養過多のために太ることもあり、その類の心配は尽きません。 イエスの時代にも、病人は実に多かった。イエスの公生涯の働きの中で、「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、」を癒される働きは、相当な部分を占めています。(マタイによる福音書4:24) 昔は、医学が発達していなかったが、今日は、医学や新しい薬品が驚くほど発達しているのにも係らず、病気の治療と健康上の問題は解決されていない。以前、私たちが全く想像もしていなかった、エイズ、鳥インフルエンザなど、新種のウイルスは、常に広がっています。 人が病気にかかると、とても苦しくなり、全てのことが面倒になります。健康な時に持っていた旺盛だった意欲を失ってしまい、好みの食べ物も嫌いがるようになります。聖書で、ヨブは苦しみの中で、「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。」(ヨブ記33:19〜20)と証言しました。 三番目には、精神的な苦痛に悩まされているからです。 心の平安は、肉体の健康に劣らず重要であります。ところが私たちの周りには、心が傷ついて精神的に苦しんでいる人があまりにも多いのです。夫婦は、幸せに生きて行くべきでありますが、夫婦関係が破壊され、不幸になる例は中々減ることがありません。感情によって受けた傷が多くなれば、愛には深い溝が生じ、憎しみと嫉妬と憎悪が膨られ痛みは増します。 以前よりも、豊かな生活ができるようになったのに、最近は、なぜ世の中を悲観して自殺する人が増えているのでしょうか?これは、様々なストレスとディプレッション(うつ病)に捕らわれて苦しんでいる証拠ではないでしょうか? 聖書には、「また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともない。」(ヨブ記21:25)と書かれています。心の痛みと怒りは、精神をむしばむ毒素であります。うつ病は、心の痛みを悪化させ、精神的安定を破壊し、極限的な状況の場合には、命の危機に至る大きな脅威にもなります。このような精神的病気からは、その根本的原因から逃れることが知恵であると言えます。聖書は、「その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。」(コヘレトの言葉5:16)と「いさかい好きな妻と一緒に家にいるよりは、屋根の片隅に座っているほうがよい。」「いさかい好きで怒りっぽい妻といるよりは、荒れ野に座っている方がよい。」(箴言21:9,19)と書かれています。 3、 心配から開放される秘訣とは何でしょうか? 祈ることと心配することとは、根本的な違いが違います。祈りは、いつも行われなければならず、一方、心配はどれほどたくさんしても、何の益もありません。もし心配をし続けることで何らかの益があるのならば、やりがいはあるかもしれません。しかし、心配をし続ければ、むしろ不安感を募らせるだけであります。 イエスも「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイによる福音書6:27)と思い悩みが無価値なものであることを力説しています。それゆえ、私たちは思い悩む習慣をより積極的に止め、その代わりに問題の解決策を見つけるべきであります。 また思い悩み(worry)、不安(anxiety)、恐怖(fear)、喪失感(forfeit)、あるいは、敵意(hostility)などで傷ついた心を持っているのなら、癒しを急がなければなりません。 その根本的な解決策はなんでしょうか?それは、イエス・キリストを救い主として受け入れることです。すべての問題の解決は、イエスを救い主として受け入れることから始まります。「しかし、言は、自分を受けいれた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネによる福音書1:12)と書かれています。 また、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8:2)と証言しています。 信仰は、神への全面的な信頼と従順であります。全能の神に頼る信仰は、まるで幼い子が親の暖かい懐に抱かれるようなものであります。だから落ち着きや、平安を覚えることができます。神は、信じる者に真の平安を与えてくださるのであります。そして固まっていた心も次第に和らいで行きます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネによる福音書14:1)とイエス・キリストが教えてくださいます。 また、聖霊に満たされて力を得ることです。聖霊は、人間がイエスを救い主として告白し、神を父として仕えるように感化させます。また、聖霊は、霊的に成熟して福音のために献身する力と様々な賜物を与えます。イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と証言しました。 聖霊は、人間が信じて、従うために、その助けを与えるだけではなく、信仰によって、人格と品性を新しくするために必要な特別な力をも供給します。更に、聖霊は、私たちがすべての問題を克服し、神の御心に従わせ、勝利に導きます。私たちは、聖書の御言葉と聖霊によって、すべてに打ち勝つことができるのです。 預言者ゼカリヤは、「彼は答えて、わたしに言った。これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ書4:6)と宣言しました。 また、神の特別な保護を信じることです。神はすべての被造物を自ら顧みるお方です。食糧を保存する倉がない各種の鳥も、白い雪をかぶった野原で寒い冬の間も生きて行きます。神が養ってくださるのであります。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイによる福音書6:26)と教えてくださいます。 ですから、私たちは、すべての心配を神に委ねて祈ることです。前述したように、心配はいくらたくさんしてみたところで、何の解決にもならないです。むしろサタンの攻撃によって、自信を失い、不安感を募らせてしまうだけであります。それゆえ、聖書は心配しないで、祈るように教えています。神に委ねて祈ると、心は楽になります。考え方も、根本から変えられて行きます。平安を与えられて守ってくださるからです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの4:6〜7)と教えてくださいます。 どうか、神の御言葉を信じて、すべての人が救われ、神の恵みと祝福が 豊かにありますよう、心から祈ります。 |
国際愛伝道所 許昌範牧師 (ほう ちゃんぽん) |
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