2014年8月のみことば |
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 (レビ記19章18節) 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 (ヨハネの手紙一4章7〜21節) |
人は誰でも心の中には愛を持っています。通常、愛は感情だと考えられています。けれども人間の愛は利己的で、とかく気がつくと、自分に都合の良い考え方をした愛を持ち合わせているのではないでしょうか。それは愛とは選択であり行動であるからです。 主イエスは、わたしたちに愛するとはどんなことかを教える模範であるのです。主イエスの生涯の中で、なされたすべてのことや主イエスの死は、最高の愛のあらわれであります。聖霊はわたしたちに愛する力を与えます。聖霊はわたしたちの心の中に住み、わたしたちをキリストに似た者にするのです。 神の無限の愛は、人間に対して普遍的に提供されているのです。ギリシア語の愛には4つの言い方があります。アガペー(真の愛)、エロース(性愛)、フィリア(隣人愛)、ストルゲー(家族愛)であり、神の愛は、エロースの愛のような「肉体の愛」ではなく、アガペーすなわち「真の愛−魂・霊の愛」であります。 スエーデンの神学者アンダース・ニグレンによれば、その著『アガペーとエロース』において、アガペーなる愛はキリスト教的愛、神の愛というべきものであり、それは他者中心(自己否定)的な愛であり、また相手の価値から独立した自発的な、したがって無償的ともいうべき愛であり、それとは対照的に、エロースなる愛は、ギリシア的愛、人間の愛というべきものであり、それは自己中心(自己肯定)的な愛であり、また相手の価値に依存した誘発的な、有償的とも言うべき愛であると述べています。 神の愛は、無償の愛(アガペー)であります。神は、愛に富んだお方であり、私たちを愛してくださっておられるのです。神の愛は無償の愛であり、普遍の愛であります。それは他人に向けられたものであり、自分だけに向けられたものではありません。キリストこそは、父なる神との間に、愛し愛される関係にあり、又、私たちを愛して、十字架におかかりになり、死を遂げられました。そこにはキリストの十字架での死において現された私たち人間に対する愛があるのです。 「愛する者たち、互いに愛しあいましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(ヨハネ一4章7節)人間として愛ということを真剣に考え、実際に愛し合おうとするものは、本来的には神から生まれ、神を知っているからだと、言い切られています。その愛は、真剣に隣人を愛そうとし、他者を自分のように愛する。そのように考えます。人は、「神の像に似せて創造されている」からだと言うとことに思い当たらずにはおられないし、自分だけでは愛しきれないけれども、他者を自分のように愛することが起こりうるのです。わたしたちが、神の愛を必要とし、神を信じるのです。 イエス・キリストにおいて示された神の愛をわたしたちは知ることができるのです。「神の像に似せて造った」人間を、その罪から救うために御子イエスを贖罪の犠牲として神ご自身が供えたところに、そこに愛があることが宣言され、その愛への応答として、感謝として、人間同士も互いに愛し合うべきであるということが、勧められているのです。 「愛することのない者は、神を知りません。なぜなら、神は愛だからです。」(同4章8節)「神は愛である」から、人間の愛とは違うのです。なぜなら、わたしたちの愛とは、自己中心的な愛を持ち、隣人や他者への愛を考えたこともなく自己愛のみで、自分自身を絶対化しているので、神を知ることもせずにいるのです。親の愛は、わが子に対して、無条件で愛を惜しみなく注ぐのです。そんな親に愛された体験を持っている人は、自分に確かな自身を持つことができるのです。何かを達成したから、何かの条件を満たしたから愛されるのではなく、ありのままで受け入れられたという経験は、人を強くすることができるのです。そんな人は過酷な試練や逆境があっても、乗り越えていけるのです。愛はそれ程に深く大きく強いので、ネガティブな経験や影響を追い払う力があるのです。 神は、独り子を世にお遣わしになったのは、その方によって、わたしたちが生きるようになるためであり、この神の愛が私たちの内に示されます。イエス・キリストにおいて、神の愛が一回的な歴史啓示として与えられました。神の愛は、歴史の内に確かなものとして証しされているのです。それは、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を贖われ永遠の命に新しく生き始めるのです。 神の自由な意志により、神の愛が人間に与えられたのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになり、ここに愛があるのです。」(同4章10節)人間の要求が神を想像したのではないのです。神がまず存在し、そして世界と人間が創造されたのです。創造も救済も 神の愛に発しており、神に基づく働きであります。そこに、神の愛の信頼に応答する人間の人格性が期待され、さらに罪の故に、もう一度新しく生命の息吹を吹き入れられて、愛し返すことができるようになったのです。ということは、人間同士の相互においても、愛し愛される可能性が回復されたことであるのです。 愛は次のようなことを教えてくれます。それは、(1)神は人間を創造されたのです。それは神が人間を愛する方なので、愛を注ぐために人間を造ったこと。(2)神は人を愛しているので、罪深い人々を気にかけてくださること。(3)神はわたしたちの愛に基づく応答を欲していること。(4)わたしたちに対するキリストの愛が、罪の問題の解決のために、ご自分を捧げる行為をされたこと。(5)神の愛が永遠にわたしたちに表されていることです。愛は自発的なものであるので、強制するものではありません。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(同4章11節)「愛し合うべきです」ということは、命令形ですが、それはキリストの愛を与えられ受け容れた者の内面的な応答責任に発するものであるから、外的な強制力ではないことが分かるのです。 わたしたちの住んでいる地上では、神が見えません。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(同4章12節) 主イエスは人のかたちをとった完全な神の現れであります。わたしたちが互いに愛し合う時、目に見えない神は、わたしたちを通して他者に現れてくださり、神の愛は全うされるのです。教会の内で信徒同士が互いに愛しあい信頼し合うなら、その共同体の内に神が宿り、神の愛が全うされます。教会に与えられている愛の一体性の保証は聖霊であります。ですから、わたしたちも教会の共同体の内で聖霊を注がれて神の愛を受けるのです。 「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださり、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださいます。」(同4章13節)わたしたちは、クリスチャンになると、聖霊を頂くことができるのです。又、神と教会との一体性は神から分け与えられる聖霊によるのです。福音書では主イエスが復活して聖霊が与えられなければ、弟子たちは主イエスが何者であるかが全く分からなかったとされています。聖霊の働きは主イエスについて証しし、同時に弟子たちを証しさせることに結びついているのです。 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(同4章16節)イエス・キリストの十字架による贖罪を受け入れ、神の愛の内に自らを、見出した人は当然、神との一体性を持つのです。 わたしたちは、神の愛がイエス・キリストの十字架の贖罪というところまで徹底して完了されているので、終末の審判を恐れる必要がないという確信をもつことができるのです。神とキリストとが一つであるように、神と信仰者とが愛において一つであるという一致のいずれかであるのです。 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(同4章18節)人間だれでも恐れを待っています。完全な愛は恐れを消すのです。恐れがあるということは神の愛を信じる心が揺らいでいるからです。けれども、神との一体性が確立していれば恐れはありません。この恐れは当然終末の審判による滅びへの恐れであります。私たちに対する神の愛を思い出すとよいのです。私たちは、神が私たちを全き愛で愛してくださっていることを知っています。「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38節〜39節) 神の愛は、すべての人の愛の源であります。その愛は、炎のように広がっていく人の心の中に愛の炎を燃え立たせるのです。神の愛によってあたためられた人々を通して、愛は次から次へ広がっていくのです。人間相互の愛は、イエス・キリストの十字架の贖罪に原動力を持ち源泉を持つのです。神と人間との交わりが、仲保者としてイエス・キリストによって回復され、そこには、救い主である神と贖われ罪赦された人間との生ける交わりであります。神に愛されて、初めて人間は隣人を愛すことができるのです。 わたしたちは、神から与えられた愛をいただき、わたしたちに対する神の計り知れないほどの愛に心を留めることで、恐れを解決することができるのです。又、わたしたちを通して神の愛を他の人々に届けることによってもおそれを締め出せます。神の愛はわたしたちの恐れを静め、確信を与えて下さるからです。 |
三芳教会 江田めぐみ伝道師 (えだ めぐみ) |
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