2014年10月のみことば |
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台(しょくだい)の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイによる福音書5章13〜16節) |
《キリストの祝福》 新約聖書マタイによる福音書の5章から7章までは「山上の説教」と呼ばれる大変有名な御言葉です。この山上の説教の初めには「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)というよく知られた御言葉があります。これは弟子たちに対するイエス・キリストの祝福の言葉だと言われます。山上の説教の初めには、この御言葉を含めて「幸いである」という一連の祝福の御言葉が記されています。これは人生の知恵でもなければ、哲学の言葉でもありません。これらの御言葉はイエス・キリストを仰ぐことによって理解できるようになる信仰の言葉なのです。イエス・キリストを仰いで神さまを受け入れる時に、わたしたちに実現する救いの御言葉です。 最初に掲載した聖書の御言葉(マタイ5:13〜16)は、これに続いてイエス・キリストの弟子であるとはどのようなことなのかについて語っています。塩、光、山の上にある町、燭台の上のともし火。イエス・キリストはご自分のみもとに集まる人々に、あなたがたはこのような者であるとお語りになりました。これらに共通していることは、その周囲から区別されるということです。塩は当時、防腐剤として用いられていましたし、山の上にある町は、建物や明かりがありますので、周りから見分けることができました。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエス・キリストが言われるとき、「地」とはつまり「この地上」、「世」とはわたしたち人間の「世の中」のことです。現実の生活の中でイエス・キリストを信じる者は、塩や光のような役割を担っていると御言葉は語ります。 たとえば「山の上にある町」というときは、山に登ろうとしている人がふもとから山の上の町を見上げていると想像することができます。これからこの山を登るけれどもあそこに町がある。あの町までたどり着こうとその人は考えるでしょう。つまり山の上の町は旅の目印なのです。また燭台の上のともし火もこれと似ています。当時の家は部屋が一つだけの家が多かったようで、ともし火を一つ点ければ家全体を照らすことになりました。周囲の暗さを照らすともし火には、周りの暗さと正反対の働きがあります。 《塩の働き・光の役目》 イエス・キリストは御自分の弟子たちを「地の塩である」と言われました。塩の働きは様々ですが、特にこの御言葉では、塩が塩としての働きを保つ必要があるという点が問題にされています。塩は決して砂糖や小麦粉とは取り替えることができません。塩には塩独特の働きがあるからです。イエス・キリストはこうも言っておられます。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏み付けられるだけである。」(マタイ5:13)塩は塩本来の役割を果たさなければ意味がありません。イエス・キリストの弟子は、イエス・キリストを信じるまさにその信仰によって、その役割を果たすということです。 また、イエス・キリストは御自分の弟子たちを「世の光である」と言われました。「地の塩」と「世の光」とは、内容的に同じことを語っていると考えることができます。弟子たちが世の光と呼ばれるのは、彼らがイエス・キリストを信じ、このお方を通して父なる神さまを崇(あが)めているからです。弟子たちはイエス・キリストを信じているので、このお方の光を世に反射することができるのです。イエス・キリストは二つの掟(おきて)をお教えくださいました。神さまを愛することと、隣人を愛することです。イエス・キリストを信じる者は、自分の罪のためにこのお方が十字架で死に、そして復活なさったことへの信仰を通して、この二つの掟を神さまから受け取るのです。このことはイエス・キリストへの信仰によって初めて可能になります。そして、信仰を持って神さまの道を歩むならば、その人はこの世を照らすことになるのです。 《そう信じることが赦されている》 イエス・キリストはご自分のことを「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)とおっしゃいました。人は確かにイエス・キリストを世の光だと思うでしょう。しかし、わたしたち自身を振り返るとどうでしょうか。わたしたちは罪にまみれていて、決して正しくもなければ立派でもありません。愛にあふれている人間でもなければ、清い心の持ち主でもないのです。それにも関わらずイエス・キリストは、御自分を信じる人々を「地の塩、世の光」とお呼びになります。わたしたちには自分のことなど全く哀れな者に映っているのではないでしょうか。自分の存在など何ほどのものでしょうか。しかしイエス・キリストはみもとに集まって来る弟子たちをそのようにはご覧にならないのです。しかも、将来成長して、この人たちは地の塩になる人々だ、世の光になる有望な人々だ、と弟子たちの人望を高く評価しているのでもありません。イエス・キリストにとって、御自分を信じる者は既に地の塩であり世の光なのです。 イエス・キリストはこの世に何を見ておられたのでしょうか。そのことを思い巡らせますと、きっとわたしたちとは全く違ったことを見ておられたのではないかと思うのです。イエス・キリストはこう言われました。「神の国は近づいた。悔改(くいあらた)めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)イエス・キリストは地上にいらっしゃるときから、神さまの御国が到来しつつあることを告げておられました。わたしたちは、やがて成就するであろう神さまの御国への旅の途中にあります。ですから、イエス・キリストのご覧になっていた神さまの御国に生かされることこそ、わたしたちの救いなのです。 《イエス・キリストのまなざし》 父なる神さまはお造りになった被造物の世界と人間を愛されました。そして罪に落ちた人間を限りなく憐れまれ、わたしたちを救おうとして独り子をお遣わしくださいました。さらに独り子イエス・キリストは、弟子たちを地の塩、世の光と呼ばれたのです。そして、十字架の道を歩まれ、死んで、復活なさいました。わたしたちは自分自身のことを決して地の塩とも世の光とも思えないでしょう。けれども、イエス・キリストはそのようにご覧になりません。御自分を信じてみもとに集まる人々を、祝福のまなざしでご覧になるのです。わたしたちはイエス・キリストの御前で自分を卑下(ひげ)する必要はもはやありません。わたしたち自身よりも、わたしたちのことをよく知っているお方にすべてをお委ねしましょう。この方のおっしゃっていることを信じて受け入れましょう。わたしたちは、地の塩、世の光、山の上にある町、燭台の上のともし火なのです。わたしたちはそのような者として自分自身を信じることを赦されていますし、そのように信じることを求められています。 ただ、不本意なことですが、わたしたちが塩であることを止め、光を掲げない道を自ら選びとることもあります。ともし火を燭台の上ではなく升の下に置こうとする誘惑がいつもあることをわたしたち自身が知っています。しかし、イエス・キリストは死んで復活なさいました。わたしたちはこのお方から呼びかけられています。だからそのことを畏れつつ喜び、そのことに誇りを持って、堂々とイエス・キリストを信じましょう。イエス・キリストの救いのまなざしのもとにわたしたちは生かされているのですから。 |
加須教会 舟生康雄牧師 (ふにゅう やすお) |
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