2014年11月のみことば |
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。 (マルコによる福音書6章30〜44節) |
本日は、4つの福音書すべてに記されている、大変有名な奇跡、5000人の給食の奇跡をご一緒にみていきたいと思います。 ある方からこのような話を聞いたことがあります。それは、相手を信頼するということを、体感するためのゲームのことです。それは、5−6人のグループで集まって、その内の1人の人が後ろ向きに倒れるところを、ほかの人が支えるというものです。しかし、倒れる人は、皆が支えてくれると分かっていても、後ろにいざ倒れようとすると、恐怖でなかなか後ろに倒れられないのだそうです。このゲームは、信頼するということがいかに難しいかということを教えてくれるものだそうです。しかし、このゲームをした人が言っていたのですが、一度受け止めてもらう体験をすると、何とも言えない気持ちよさがあるのだそうです。そして、何回も受け止めてもらう体験をしていくうちに、躊躇なく倒れることが出来るようになるということでした。 私はこの話を聞いた時に、私たちと神様との関係も同じではないかと思わされました。私たちは、神様がこの世界を造り、また今もこの世界を支配しておられて、しかも、私たち1人1人のことをご自分の命を捨てるほどに大切に思っていてくださることを教会に来て、聞いて知っています。しかし、そのように神様が、全知全能のお方で、いつもそばにいてくれて、愛していてくれると頭でわかっていても、実際は、なかなか信じきれていないところがあるのではないかと思うのです。しかし、人間関係における信頼関係がそうであるように、神様との関係も、神様に受け止めてもらう体験を私たちがしていくなかで、だんだん、神様の力の大きさ、確かさを知るようになってくるのだと思うのです。 今日の聖書の話は、主イエスがたった2匹の魚と5つのパンで5000人の人を満腹にさせたという驚きの奇跡ですが、実はこの奇跡は、主イエスが弟子達に「私があなたたちの全てを満たすものだ」ということを体験させたという箇所なのです。主イエスは、病人を癒したり、死んだ人を蘇らせたり、たくさんの奇跡を行いました。しかし、この5000人の給食の奇跡の話だけが、4つの福音書全部に書かれている唯一のものなのです。それくらい弟子達にとってこの出来事が心に残る衝撃的な奇跡だったわけです。 主イエスは、この奇跡をなさった1年後に、十字架にかかって死んでしまいます。しかし、この時の弟子たちは、まだそのことがここで分かっていません。もちろん主イエスは、ことあるごとに弟子達に話していましたが、弟子達はそのことが信じられなかったのです。ただ、主イエスだけは、自分があと1年で弟子たちと離れなくてはいけないことをご存じでしたので、自分がいなくなっても、弟子達がしっかりと神様のことを伝えていけるように、今一緒にいるうちに神様の力を信頼することの大切さを教えたのです。 今日の話が、どういうところから始まったのかまずご一緒にみていきたいと思います。30節にこのようにあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」この時弟子達は、2人1組になって、宣教に出かけて行き、帰ってきたところでした。弟子たちは、今まで主イエスの後にくっついていただけでしたが、今回初めて自分たちだけで宣教に行って、見事に終えて帰ってきたのです。最初は不安だったと思います。しかし、伝道をし始めたら、主イエスとおなじように、病気の人を癒したり、悪霊を追い出したりすることが出来たのです。だから、弟子達は帰って来た時、とても興奮していました。「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」と書かれています。何を教えて、何をしたかではなくて、弟子たちは、まず自分たちが病気の人を癒したり、悪霊を追い出すことが出来たことを興奮気味に語ったのです。伝道の業がまるで自分の力によって出来たかのように得意になっていた弟子たちの姿があったと思います。 ですから、弟子達が報告を終えたあと、主イエスは弟子達に「しばらく休みなさい」と言われました。31節には弟子達は、食事をする暇もないくらいに忙しかったとあります。しばらく、体を休めて、食事もとって、リフレッシュしたほうがいいということだと思います。でも、ここで主イエスはただ、そのようなリフレッシュだけをさせようとされたわけではありません。「人里離れた所」というのは、マルコによる福音書では、イエス様がよく祈られた祈りの場所のことを意味します。マルコの1章35節には「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出ていき、そこで祈っておられた」と書かれています。つまり、主イエスはここで弟子たちに、静まって神様との交わりを持つ時間を与えようとされたのです。それは弟子たちが、神様が働かれていることを忘れて、自分の力に頼っていくことは、弟子たちにとって、とても危険なことだったからです。 ところが、弟子達は実際はゆっくり神様との時間をもって休むことが出来ませんでした。人里離れた所というのは本来さびしい静かな所です。しかし、弟子たちがそこについたら、人でごった返していたのです。33節に「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」とあります。主イエスの評判を聞いていた人たちは、無我夢中に主イエスを求めて駆けつけて来た、それも先回りして待ち伏せしていたほどでした。弟子達は、追いかけてきた群衆によって、休めなくなってしまったのです。だから、もしかしたら、「イエス様が群衆を追い払ってくれないかな」と期待していたかもしれません。なぜなら弟子たちに「休みなさい」と初めに、提案してくれたのは主イエスだからです。でも主イエスは、その群衆を見てどうなさったかと言いますと、34節です。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。主イエスは、群衆を飼い主からはぐれた迷子の羊みたいで、かわいそうだと思われたと書いています。主イエスは、どんな人に対しても非常に憐れみ深い方です。しかし、私はここで何となく腑に落ちない感じがするのですが、では、弟子達の休みはどうでもよくなったのか 休みが先延ばしにされて弟子たちがかわいそうではないかと、正直そう思いました。しかし、そうではないのです。 実は今から主イエスが行おうとしている奇跡の出来事の中にこそ、弟子達の本当の休息があるからです。さきほど、本当の休みは神様との交わりといいましたが、それは、自分の力じゃない、神様が私たちに力を与えてくださるのだということを知ることこそ、私たちの力の源だからです。そのことを思う時、主イエスは、弟子たちのことを、実は放っておいた訳ではなくて、むしろ主イエスが今から行おうとしている、この大きな奇跡を通して愛する弟子たちに、本当の休息を与えようとされたということなのです。 ことが起きたのは、主イエスが教え始めてからだいぶ時間がたったときでした。弟子達が「もう遅くなりましたので、解散させてください」と言いました。弟子たちも、食事がまだでしたので、自分たちもお腹すいたし、休みたいと思っていたかもしれません。弟子たちは、主イエスに「群衆を解散させてください」と言いました。そして、それに対して、主イエスは何と答えられたでしょうか。37節を見てみましょう。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」弟子達にとって予想外の返答だったと思います。「あなたたちで何とかしなさい」と言われたのだと思って、びっくり仰天したと思います。男の人だけで5000人ですから、女性と子供も合わせたら、1万人近い人を前にして、どのようにして食事を用意することが出来るでしょうか。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と弟子は言っています。1デナリというのは、当時の農夫の1日分の給料ですから、200デナリは、200日分。約8か月分のお給料です。そんな大金、当然弟子達は持っていません。常識的に考えても、お腹をすかせている皆にパンを与えたくても与えられない現実があったのです。 そして弟子達が、主イエスの本当に意図していることを理解できずに、主イエスの言われた言葉に困惑していると、今度は「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われました。そして、弟子たちが確かめて来たら「五つのパンと2匹の魚がありました」これはヨハネ福音書に出てきますが、この時、少年が持ってきていたお弁当があって、そのお弁当が「パンが5つと、魚が2匹」でした。それから、主イエスは、弟子たちに今度は、人々をグループにわけて座らせなさいとおっしゃいました。これも、冷静に考えたらおかしなことを主イエスはおっしゃるなと思うのです。目の前には、少年のお弁当しか、食べ物はないのに、5000人以上の人を食事をさせる時のように座らせなさい、食卓につかせなさいとおっしゃっているからです。しかし、弟子達も群衆も主イエスの言葉に従いました。そして、主イエスが少年のお弁当を受け取って、神様に讃美の祈り、パンをさいては弟子たちに配らせると、そこにいた1万人近くの人全てが食べて満腹したというのです。しかも、残りは12の籠にいっぱいになったのです。つまり、最初より増えたのです。 主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰いました。でも、それは「あなたたちで食料を調達しなさい」という意味ではなかったのです。主イエスは全知全能の神様です。弟子たちが、お金を持っていないことなどご存じでした、弟子たちで1万人以上の人にパンを与えることができるなんて最初から思ってもなかったし、期待もしていなかったのです。そうではなくて、主イエスが与えるパン、主イエスが用意した食べ物を、あなたたちが人々に手渡しして、パンを渡すのだという意味だったのです。それなのに、弟子たちは先走って、自分の本来の役割を忘れて、全部自分で用意しなくちゃいけないと思い込んで、最初から、「無理」とか、「お金がない」などと言って、人々に関わることを放棄して、諦めていたのです。 さて、この話を聞いている私たちは、弟子たちのことを笑うことが出来るでしょうか。私たちも、弟子達と同じ気持ちになることがないでしょうか。神様が共にいて力を与えてくださることを忘れて、自分で何とかしなくてはいけないと思って、自ら抱え込んで、無理だと思い込んでしまうことがないでしょうか。 たとえば、どうしても嫌いな人がいたとして、最初から自分の力では好きになれるわけないと思い、あきらめてはいないでしょうか。自分1人の力で好きになろうとしてもそれは無理なのです。感情的に嫌なものは、どうしたって嫌だからです。でも、神様が共にいて力を与えてくださることを知り、自分で格闘せずに神様に逃げ込むときに、嫌いだと思っていた人も、いつのまにか…いつのまにか好きになっているというようなことが起こってくるのです。神様は、今のままの私たちが持っているものを、用いてくださって大きいことをなしてくださるお方なのです。決して、「あなたが頑張って他者を愛さなければ、私もあなたを愛さない」などと、条件をつきつけてくるお方ではないのです。今現在の私たちの中に眠っている能力、また、これから主が共にいるなかで成長していく可能性を主は見てくださって、共に頑張ろう、一緒にやっていこうとおっしゃってくださっているのです。 また、主イエスが、ここで 御自身の力のみで群衆に必要な食べ物を用意し、群衆に必要な食べ物を配膳することも出来るお方であるにも関わらず、少年のパンを使ったり、弟子たちを通して配らせたりしていることは注目するべきことだと思います。たとえば私が仮に主イエスの立場だったとして、自分の力を示したいのだったら、もっとすごい方法で、たとえば何もないところから食べ物を出したり、魚とパンなどではなく、もっとごちそうをだしたりすると思います。その方が驚きが大きいからです。でも、主イエスはそうはなさらなかったのです。主イエスは、神様だからと言って、1人で働きをなさることはしないのです。私たち人間、弱く、小さく、愚かなものでしかないこの私たちと一緒に働きを成すお方なのです。それは、人々の必要を満たす喜びを私たちに味わわせたいから、私たちと共有したいからなのです。 ここで、群衆の必要を満たす喜びを、主イエスが弟子達と共有したことには意味があります。それは、主イエスが、近い将来、どのように人の必要を満たすかということを、指し示しています。 目に見えるパンは与えられても、いつか腐っていきます。そのパンを食べて生きている私たちもまた、同じようにいつかなくなっていきます。この世にあるものはすべて腐るか、壊れるかして、消滅してしまうのです。しかし、いつまでもなくならないものがあるのです。それは主イエスと共に生きるという永遠の命です。 そして、主イエスはそれを与えるために、十字架で死なれたのです。十字架で、主イエスが死なれたのは、私たちを罪から解放し、神様と人を愛して生きることのできる本当の命に、私たちを生かすためでした。そのために主イエスは、御自身の体を「命のパン」として、さいて与えてくださったのです。そしてその「命のパン」を、主イエスが十字架にかけられたあと、弟子たちが、もうその時は5,000人どころではない、全世界の人に渡していくようになり、そのような弟子達によって全世界にまた日本にも、こうして教会が立てられていくことになったのです。 この後の弟子達の歩みを見ると、人々にとって一番必要なもの…魂の救いを、主イエスと共に分け与える者となっていっています。そして、ほとんどの弟子達は殉教の道を歩むほどにまでなって行ったのです。今週も、私たちは、私たちの必要を本当に満たしてくださる御方を知って、主と共に歩んでまいりたいと思います。 |
東京聖書学校吉川教会 佐々木羊子牧師 (ささき ようこ) |
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