2014年12月のみことば

被造物のうめき −兄の信仰から−

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
              (創世記1章31節)

 1972年、当時の田中首相の「工業の再配置,交通網の整備を骨子とする国土の総合的な開発計画」(『列島改造論』)のもとに大々的な国土開発事業が進行した。日本列島を高速道路・新幹線・本州四国連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密の問題と公害の問題を同時に解決するといった内容であった。また、あまり知られていないが、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及されていた。

 当時、この計画は国民に受け入れられたものの、公害、環境破壊等の問題含みだったのでした。その結果は、さらなる人口の都市への過密化、並びに農村地域の過疎化を急速に進行させた。地方においての地域乱開発、地価の高騰現象、観光事業開発に伴うモータリゼーションにより自然破壊等々が現実の問題となって登場してくるのであります。

 「見よ、それは極めて良かった。」と、すべての被造物は神によって極めてよかったと創造されたのでした。しかし、その極めてよかったと創造された被造物が先程の例のように人間によって破壊されていくのであります。これは「失楽園物語」(創世記3章)と大いに大いに関係してくるものと理解しております。

 私は、尊敬する兄(木俣 繁)の召天一年の時をやがて迎えます。
 昨年11月25日、84年の人生の旅路を終え天に召された兄の人生の旅路からキリスト者として生き抜いた人生を若干ご紹介いたします。

 牧師の子として生まれた、兄の人生は、生活全般にわたってキリスト者として従順・積極的な生き方であったと私は思うのです。そう言えるのであります。その全般を紹介することは出来ませんが、上記、創世記との関連で一部紹介をさせて頂きます。

 兄は家庭的な事情(経済的)から自分のライフワークとした蝶や蛾の研究を全く独学で行い専門的な研究者の一人となった人でした。その研究はその筋の方々からも認められ、山形県においては鱗翅学会の第一人者にまでなったのでした。「山形県大石田町でのギフチョウ、ヒメギフチョウの分布調査は日本でもその例を見ないギフチョウとヒメギフチョウの混棲地域でありギフチョウとヒメギフチョウの交配による新交雑種が存在する貴重な地域であることが調査の結果解かり、貴重な動植物が絶えていく現象が全国各地で見られ大石田町も例外ではなかったのです。」10年に亘る調査によって大石田町はギフチョウとヒメギフチョウを天然記念物に指定し町全体が保護活動に取り組んだのであります。里山の生育環境が整備され、保護活動を行った結果、個体数が減少することなく今日に至っております。(「このようにギフチョウ、ヒメギフチョウの保護の問題は、自然保護や環境問題を考える上で大きな問題を提起しているように思えます。」―山形県立博物館ニュースー第113号木俣繁報告)

 兄は、大石田町の名誉町民に加えられ、また環境大臣の表彰を受けることになったのです。「地道な研究を黙々とこつこつと続け、決して業績を誇らない(ひけらかさない)この研究態度に多くのことを教えられた」と弔辞の中で友人が述べられておりました(葬儀11/27)。この態度の中に私は、キリスト者としての兄の姿を見るのです。

 ロマ8:18-25 「18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

 この聖書の箇所の注釈を「日基出版局 新共同訳「新約聖書略解」」に次のように記しております。
 「19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」は、従来必ずしも真剣に受け取られてきたとは言えない、多少キリスト教的常識からすると奇異な感を与える言葉である。しかしキリスト教が人間中心に偏りすぎて自然や生き物全体を視野に入れていないという批判の中で、また、エコロジーの問題として自然破壊の元凶が人間であるという批判の中で、これは注目に値する主張である。おそらくこの発言の背景には創世記の創造物語で三章の人間の堕罪の結果、神の創造による全存在が神との正しい関係を持ち得なくなり、神の怒りの下におかれることになり(日基出版局 新共同訳「新約聖書略解」監修 山内眞 P.406引用)

 現在、地球規模で自然問題が叫ばれております。18世紀の産業革命以来現在に至るまで自然破壊が続けられております。国際的な場で論議されておりますが、先の見えない解決の状態でさらに自然が破壊されておるのです。私たちキリスト者は真剣に考えなくてはならない問題です。今や、原子力問題は人間の手では修復できない完全な破壊者としてこれこそが神の創造なさった被造物を根こそぎ破壊するサタンの究極的な働きであります。広島、長崎の原爆、福島原発(スリーマイル原発、チリノヴイリ原発)は私たちに何を語っているのでしょうか。原子力の平和利用はサタンの甘言です。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のです。
 
 パウロは、フィリピ1:20-21「 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」また、ローマ14:8 で「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と語っております。

 「キリストがあがめられるように!」兄の信仰をこのパウロの言葉の中に見出すのです。自分の利・誇りを求めず、その成果は、「キリストをあがめる」結果になるのです。兄は、本当にあがめられるべき方を知っておったのです。本当に大きくされるべき方を知っておったのです。自分以外に、本当に大きくされるべき方を知っておるから、兄は最後まで「キリストをあがめる」目的をもって生きることが出来たのは、そういうわけです。

 葬儀は、すばらしい葬儀でした。兄の最後にふさわしい主を証しする場になったと思います。
亡くなる二週間前まで礼拝後の讃美歌練習を担当しておったようで、主日礼拝は、自分の都合で休むことはなかった兄でした。
 時代が時代、牧師になる希望もあり大分悩んだと言うことを聞いております。しかし、神は兄の道を備えてくださっていたのです。
本庄旭教会 木俣修牧師
(きまた おさむ)




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