2015年2月のみことば

リデイア…人生の価値を見出した人

 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
                  (使徒言行録16章11〜15節)


 「罪隠す木だ 満開桜木蹴ってやる」
 わたしの高校時代に俳句研究会があったのですが、そこに投句された一句です。青年らしい正義感と、社会の矛盾、だれでも持つ人間の罪に対する嫌悪感、嘆き、憤りが込められているように思います。さあ、これを背負って若い人々はここから自分の人生をスタートさせて行くのです。今日の聖書の箇所には、人生において何を大切に生きていくのか、人生をかける価値を見出した人の話が書かれているのではないかと思います。

 時は紀元50年頃、キリスト教がヨーロッパに伝えられ、最初に信者となったのが、ここに出て来るリディアという女性です。現在のギリシャのエーゲ海を臨む港町からしばらく内陸に入ったフィリピという都市が彼女の住む場所です。リディアについてわかることは、まず彼女が「紫布を商う人」であったことです。彼女の故郷ティアティラは現在のトルコにある町ですが、特産品が紫色の染物で、染料の抽出に相当手間のかかる稀少価値のある非常に高価なものでした。彼女はその紫布を仕入れて、販売することを生業としていました。当時、ギリシャ・ローマ世界の上流社会の人々を相手に、いわば大成功を収めた実業家といえるでしょう。

 金持ちには、金の無い者にはわからない苦労があると聞いたことがあります。金持ちは今ある資産を減らすまいと考え、心をすり減らし、夜もゆっくり休めないというのです。金をただ貯めることだけに終始すると、いつの間にか金に使われてしまいます。ある経済学者が「金だけ、今だけ、自分だけ」という日本の経済政策を批判していましたが、経済のみを最優先する国づくりは危ういものです。

 しかし、リディアは女商人として多忙なスケジュールに生きでいながらも、商売繁盛だけに夢中になって、金儲け以外何も見えないという生き方をしていませんでした。それは聖書にあるように、彼女は「神をあがめる」人であり、ユダヤ人に定められた安息日の礼拝を欠かさなかったことに表れています。ユダヤ人は男10人集まれば、ユダヤ教の会堂を建てると聞いたことがありますが、リディアの出席した礼拝は川岸の祈りの場所で婦人たちだけが集まるささやかな礼拝でした。そこで彼女は大きな人生の転換を与えられたのです。

 予想しなかった男達数人がゲストとして加わりました。それが「わたしたち」と聖書に書かれている使徒パウロ一行です。遠くエルサレム教会から、そしてアンティオキアの教会(現在のシリア)からキリスト教の宣教者として派遣されたパウロが語り出します。私の想像ですが、パウロの話はちょっと長かったかもしれません。

 パウロ(元の名前はサウロ)はまずユダヤ教の神について語ったでしょう。パウロ自身ユダヤ人の家庭や厳格なユダヤ教の教育を受け、高名な律法学者ガマリエル門下生となり、神の教えの深い知織を身に着け、非の打ち所がないと思われる生活に励んで来た人でした。ところがパウロはユダヤ人の中に「イエス・キリストこそ、神がお遣わしになった救い主だ、主イエスは十字架で殺されたが三日目に復活した。主イエスを信じる者は皆救われる」と表明する人々がいることを知りました。「神へのとんでもない冒涜だ。民族の誇りを破壊しようとしている」とパウロは考え、主イエスをキリストと信じる者を逮捕して殺害しようと意気込んで隣国シリアのダマスコまで出かけたのです。その途中、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と自分の名前を呼ぶ主イエスに出会ったのです。(使徒言行録9章)

 そのことから始まって、今までの「自分はこれだけ頑張っている、自分ほど正しい者はいない。」と、自己義認するところに罪があることを知り、目からうろこが落ちるようにして、自分の罪を赦すため主イエスが十字架にかかってくださったことを知りました。自分のがんばりから解放され、主イエスの赦しを得て生きる喜びを得たのです。そして彼は神からパウロという新しい名を与えられ、キリストの福音を伝える使徒に任じられた、これまでのことを語ったでしょう。そしてこれはパウロ個人だけの体験ではなく、今も世界中の人々に教会を通して、キリストの救いに招くために神は働かれている、と喜びにあふれて語ったのです。

 「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」と聖書に書いてありました。リディアはパウロの語るメッセージに心を開き、丹念に耳を傾けました。聞くことに集中しました。自分の納得の行く部分や好ましい部分だけ選り分けて聞いたのではありません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と、パウロが書いたローマの信徒への手紙10章17節にもあります。みことばに伴う聖霊の働きによって彼女は、主イエスを救い主と信じました。

 リディアの信仰は家族にも影響を与え、家族はリデイアと共に洗礼を受けました。洗礼は、自分を人生の「主」として生きてきた古い自分に死んで、キリストを「主」とする新しい人生の始まりを意味します。そして同じ信仰に生かされる神の家族の一員として教会に迎え入れられるのです。

 クリスチャンとなったリディアは、さっそく新しい生き方を始めます。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください。」と、救い主イエスを伝えてくれたパウロ一行を招待しました。ただ食事と宿泊を提供したというだけに留まりません。「無理に承知させた」といった彼女の強引なまでのもてなしは、主イエスを信じた喜びと感謝が、何かわたしもキリストの使徒たちや教会のお役に立ちたい、という積極的で具体的な働きへと押し出したからでしょう。彼女は紫布の商人として商売に精を出しつつ、主イエスの恵みを運ぶ者になり、与えられた富を神にささげ、福音の宣教の働きに加えられていったのです。

 後に使徒パウロはフィリピ教会の信徒たちに「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と、手紙を書き送っています。
 リディアが福音に仕える道を積極的に生きたように、あなたも救い主イエスの招きに応えて主イエスと共に生きてみませんか。NHKTVの朝ドラ「マッサン」に出て来た大阪商人の鴨居の大将は「やってみなはれ」が口癖でした。彼の言葉を借りるとすれば、「いっぺん教会の礼拝に来て、聖書のメッセージを聞いてみなはれ!」とお勧めいたします。教会には本当にいろいろな年齢の、いろいろな出身地の、いろいろなきっかけでキリストに出会った人々が来ております。

和戸教会 三羽敦子伝道師
(みわ あつこ)




今月のみことば              H O M E