2015年6月のみことば

聖霊に満たされて

 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
                  (使徒言行録7章54〜60節)


【1、 はじめに(序論)】

 四季折々、寒暖差のある日本に於いて、このキリスト教暦の「ペンテコステ」前後しばらくの間は、1年を通して最も過ごし易い時期かも知れません。
 新約聖書には4つの福音書がありますが、そこにはイエス様が行われ、また教え始められてお選びになった「使徒たち」に、聖霊を通して指図を与え、天に上げられ為さった日までの全ての事についてが、書き記されています。福音書に続く書が、「使徒言行録」です。聖霊降臨によって誕生した「教会」の宣教の責任を持つ「使徒たち」の行った記録です。

 「ペンテコステ」はギリシア語で50の意味です。キリスト教会では「ペンテコステ」五旬祭(過ぎ越しの祭りから50日目に行われる収穫祭)の日に、聖霊が豊かに注がれた「聖霊降臨日」を記念してお祝いをします。そして「ペンテコステ」は「教会の誕生日」でもあります。
 「使徒言行録」には「ペンテコステ」の出来事が記され、「使徒」を用いて、「神様が聖霊を通して何をなさったのか」が記されています。

 2章には、主イエス・キリストを3回も否定したあの使徒ペトロが「聖霊に満たされて」説教をした事、ペトロの言葉を受け入れた人々がその日に3000人も救われた事が、記されています。信じる者の群れ、つまり教会が誕生しました。
 3章には、「使徒」ペトロとヨハネが、足の不自由な男の人を「主イエス・キリストの御名によって」癒した出来事が記されています。ペトロは「イエス・キリストの御名」が、彼を強くし、「イエス・キリストの御名」を信じる「信仰」が、彼を「完全に癒した」のだ、と説教しました。
 「使徒」たちは、「聖霊に満たされて」「主イエス・キリストの証し人」とされ、驚くべき、「神様の業」を行いました。

 しかし、この「神様の業」が行われた事によって、騒がしい騒動が起こりました。足の不自由な男の人が神様の憐れみと癒しの恵みに与かった事や、自由を得られた事を共に喜べない、祝えない人々がいました。「イエス・キリストの御名」を共に誉め讃えず、疑って信じようとしない人々、「イエス・キリストの御名」を拒んで受け入れない人々によって、使徒たちは捕えられ、裁かれました。

【2、ステファノの殉教(本論)】

@ 「人々」
 使徒言行録7章54節には「ステファノの殉教」というタイトルがつけられています。
 捕らえられた「使徒」「ステファノ」は、大祭司から「訴えのとおりか」と尋ねられた時「説教」をしました。同じ使徒言行録7章の始めに「ステファノの説教」というタイトルが付けられています。
 この場面に登場する「人々」は、「ステファノ」にとっては兄弟であり父である皆さんです。この「ステファノの説教」を聞いて「人々」は激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしました。

 「ステファノの説教」の内容は、「イスラエルの歴史」、「神に従うこと」、「神の御言葉に従わなかったイスラエルの罪」そして、「正しい方(イエス・キリスト)を殺した罪」の指摘と糾弾です。
 これを聴いていた人々は、地団駄踏んで悔しがりました。新改訳聖書では「はらわたが煮え返る思いで」と訳されています。しかも聖書の原語の直訳では「(心を)のこぎりで引き切る」だそうです。聞いている人々は、「聖霊に満たされて」語るステファノの口から出る神様からの言葉、説教に対して激しく憤りを感じ、怒り、この上もなく腹を立てた事が分かります。

 実は使徒言行録5章33節にも、同じような言葉があります。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」

 先程触れた騒動です。使徒3章で「使徒たち」は、足の不自由な人の上に為された「神様の癒しの御業」について、「イエス・キリストの御名」が彼を強くし、「イエス・キリストの御名」を信じる「信仰」が、彼を「完全に癒した」のだと語り、主イエス・キリストについて民衆に説教をしました。すると4章で、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がイラ立ち、「使徒たち」を捕らえて、牢に入れ、そして脅しました。

 「使徒たち」の説教を聞いて信じた男の人が5000人にもなったので、使徒たちは、祭司たちから「今後、あの名(イエスの名)によって誰にも話すな」と脅され、「決して、イエスの名によって話したり教えたりしないように」と命令され、そして更に脅されました。議員や他の者たちは相談して「このこと(彼らが行った目覚ましい徴)が、これ以上、民衆の間に広まらないように」と考え、「何によって癒されたかという事」「神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものである事」「天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか人間には与えられていない事」などを語らないようにと、命令しました。

 5章に入ると、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃え、使徒たちを捕らえて公の牢に入れ、使徒たちを最高法院の中に立たせました。
 大祭司が尋問し、使徒たちは答えて言いました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」「神は、イエスを復活させられました。」「神は、イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方(イエス様)を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」その証人として「わたしたち(使徒たち)」と「神が、御自分に従う人々にお与えになった{聖霊}」を挙げました。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」のです(5;33)。

 大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は、ねたみに燃えていました。使徒たちが、エルサレム中に、イエス様の「十字架と復活」についての教えを広めたからです。また、「イエス様の十字架の血の責任を、自分たちに負わせようとしている」と考えたからです。

 「使徒たち」は捕えられて牢に入れられ、脅され、鞭で打たれても、釈放されました。「使徒たち」はイエス様に起こった「死者の中からの復活」を繰り返し宣べ伝え、この命の御言葉を、残らず民衆に教え伝えました。また議員や他の者たちは、使徒たちのこの「大胆な態度」を見て、しかも使徒たちが「無学な普通の人である」ことを知って驚き、また使徒たちが「イエス様と一緒にいた者である」ということも分かるにつれて、いらだち、驚き、イエス・キリストを信じる民衆を恐れました。

 民衆皆の者が、使徒たちが「聖霊に満たされて」語る「神の言葉」や、「聖霊に満たされて」行う「神の業」を見て、「神様を賛美していた」からです(4;21)。

 使徒たちは皆「聖霊に満たされて」、大胆に神様の言葉を語っていました(4;31)。また「イエス様の名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(5;41)、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア(ギリシア語でキリスト、救い主の意味)イエス様について、福音を告げ知らせていました。」(5;42)

A 「ステファノ」
 最高法院で語る「ステファノ」の説教を聞いた人々は、「あなたがたが、その方(イエス・キリスト)を裏切る者、殺す者となった。」(7:52)と言う「ステファノ」の言葉、聖書の教えに激怒しました。

 では、この人々を激怒させた「ステファノ」は、どういう人物だったのでしょう。
 「ステファノ」は、明治大正、昭和初期に用いられた文語訳聖書や、文語を日常の話し言葉である口語に訳した口語訳聖書、また新しく改めて訳した新改訳聖書では「ステパノ」と訳されている「人の名前」です。英語だと「スティーブン」です。女の子の「ステファニー」という名前も案外この「ステファノ」からきているのかも知れません。
 この使徒6章には「ステファノたち7人の選出」というタイトルが付けられています。実は「ステファノ」は、使徒の6章から聖書の中に登場します。使徒6章8節から「ステファノの逮捕」された様子が記され、そして7章の「ステファノの説教」へと続きます。

 6章の「ステファノ」たち7人が選ばれた条件の中から、「ステファノ」は、‘霊‘と知恵に満ちた評判の良い人であることが分かります(3節)。また「ステファノ」は、信仰と聖霊に満ちている人の1番目に名前が挙がる人物であったことが分かります(5節)。そして「ステファノ」は、恵みと力に満ち、すばらしい不思議な「業」と「しるし」を民衆の間で行っていた人物であることが分かります(8節)。
 「しるし」についてですが、漢字だと「徴」と表されるのではないでしょうか。イエス様はマジシャンのように「奇跡」を行われたのではなく、「神の子として」の「徴」を世に現わされました。そして、「イエス様を神の子として信じるように」と勧められました。
 「ステファノ」は、イエス様をメシヤ(救い主)と信じる「信仰」に満ち、そして「聖霊に満たされ」、素晴らしい神様の不思議な「業」と「徴」を行い、神様の恵みと力とに満ち溢れ、イエス様の十字架と復活の証人、証し人とならせていただいていた人物でした。

 この「ステファノ」が、「解放された奴隷の会堂」(リベルテンの会堂)に属する人々に訴えられて、宗教指導者たちによって捕らえられ、最高法院に立たされ、大祭司に「訴えのとおりか」と尋ねられて説教した(7章1節)、というのが、この聖書箇所の舞台です。
 「ステファノ」は、捕えられ最高法院に引っ張り出されても、偽の証人が偽りの証言を訴え出ても、臆すること無く堂々と説教しました。「ステファノは、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」(55節)「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(56節)のでした。
 「その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(6章15節)とあります。

 「ステファノ」は、「聖霊に満たされて」いました。そして、天を見つめていました。天には栄光に満ちた神様と、神様の右に立っておられるイエス様がおられます。「聖霊に満たされて」いた「ステファノ」には、「天におられる神様とイエス様が見えた」のです。そして言いました。「天が開いて、人の子(イエス様)が、神の右に立っておられるのが見える」。

 幼い子どもの歌に「赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い赤い、赤い実を食べた」。また「とんぼのメガネは、ピカピカメガネ、お天と様を見てたから、見てたから」というのがあります。鳥は、食べた実の色になり、トンボは、お日様を見てピカピカになります。人は何を見て、何を映し出していくのでしょうか。「ステファノ」は天に目を留め、天にある状況を映し出していました。体は地上にあっても、身も心も天国人として、「聖霊に満たされて」天を見つめ、充ち溢れる神様の栄光の輝きと、キリストの永遠の命の輝きを映し出していました。ですから「ステファノの顔は、さながら天使の顔のように見えた」のです。

B 「イエス様」
 「天が開く」様子を想像してみましょう。イエス様が洗礼を受けられたとき、「天がイエス様に向かって開」きました。そしてイエス様は、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧にな」りました(マタイ3;16)。
 また主である神様が、必ず「天の窓を開き」祝福を限りなく注ぐから、神様を試してみよと、勧められている聖書の御言葉もあります。
 私は「天が開かれる」まで「祈り破る」ことを聞かされて育ってきました。「天が開く」まで、「天が開かれる」まで「祈り破るのだ」、と教えられてきました。

 「聖霊に満たされて」「ステファノ」は、「天が開いて」「イエス様が、神様の右に立っておられるのが見えた」のです。そういう「ステファノ」の声を聞いて、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始め(まし)た。」(使徒7;57、58)。
 もう人々の我慢は、限界を越えたのです。「神様を見る」と冒涜する「ステファノ」の声を聞かないように耳を手でふさぎ、「ステファノ」を生かしておいてはならぬ、と行動に出ました。聖なる都エルサレムの外にひきずり出し、石を投げ始めました。
 「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、」言い(まし)た。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)。

 釈放された使徒たちが、「イエス様の御名による宣教のゆえに辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」のも、ステファノが、「石を投げつけられている間、絶え忍ぶことができた」のも、主イエス・キリストに目を留めていたからです。心はいつも、イエス様と共にありました。イエス様が、いつも父なる神様と共におられたのと同じです。
 イエス様は十字架上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23;34)
 また、息を引き取られるときには大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23;46)。その場にいた百人隊長はこの出来事を見て、神様を賛美しました(ルカ23;47)。イエス様は、いつも、いつも、父なる神様と、共におられました。そして、神様の霊、「聖霊に満たされて」起こる出来事には、「神様を賛美する」という実が結ばれます。

 石打ちに関しては「姦淫の女の出来事」(ヨハネによる福音書8章)を思い出します。
 姦淫の現場で捕らえられた女に対して、「石で打ち殺せ」とモーセの律法を盾にしつこく問い続ける律法学者たちや、ファリサイ派の人々に、イエス様はこう言われました。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、残された女にイエス様は言われました。
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
 神の御子イエス様だけが、罪を赦し、人を罪から救う事が出来る、唯一のお方です。

【3、さいごに 迫害から宣教拡大へ】

  ヨハネによる福音書12章24、25節で、イエス様はこう言われました。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
 また、マルコによる福音書8章36、37節でも、こう言われています。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 (使徒7;60)それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
 「ステファノ」は、この世では自分の命を失いましたが、主イエス・キリストの尊い命という代価によって、「永遠の命」を得ていました。「ステファノ」は「永遠の命」という尊い宝物を既に受け取っていました。神の御子、イエス・キリストの命と引き換えに与えられていました。神様の御子イエス・キリストこそが、私たち全ての人の「罪の贖い」のために十字架で死んで下さり、イエス様こそ(メシア)キリストと信じる全ての者に、「永遠に尽きない命」を与えて下さる唯一のお方です。「ステファノ」の命を買い戻すために、神の御子なるイエス・キリストが十字架で死なれた事をステファノは信じて、「永遠の命」に生きる者とされていました。それは、主イエス・キリストを信じるすべての者にタダで与えられます。代価は、もう支払われています。

 この日エルサレムの教会に対して、大迫害が起こりました。けれども宣教は、拡大していきました。ステファノの殺害に賛成していたサウロ(58節)も、後に、復活の主「イエス・キリスト」に出会い、大伝道者へと変えられました。
  私たちも「聖霊に満たされて」神様の恵みに与るならば、主イエス・キリストの「生きた証人」とならせていただけます。そして、神様の不思議な「業」と「徴」を行う者として神様に用いられ、「神様の御業」の目撃者とされ、証人とされます。主イエス・キリストを自分の罪から救い主(メシヤ)と信じる私たちには、「永遠の命」という宝物が与えられます。神様の御名を崇め、誉め讃える者とさせていただきましょう。
深谷西島教会 竹内成子伝道師
(たけうち なるこ)




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