2015年7月のみことば

本当のリーダー

 ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。
                  (ヨシュア記5章13〜15節)


 旧約聖書・ヨシュア記5章13節には、「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである」とあります。彼はそびえ立つエリコの城壁を見上げ、どうしたらこの賢固な城を攻め落とすことができるのか、と考えていたのであります。ヨシュアはモーセの後継者として任命されました。教師のモーセは「ヨシュア、後を頼む」と神様の所へ行ってしまわれたのです。頼もしい先生が行かれ新米のイスラエルのリーダーとなったのであります。何とも心細くなりました。モーセはイスラエルの父でした。何しろエジプトの王子として高い教育を受け、40年間荒れ野で訓練された、知的にも体力的にも偉大なリーダーであったのです。モーセと比較すると自分はどうしても小物で見劣りがする、と思ってしまうのでありました。

 ヨシュアはイスラエルの民を率いて、西側からヨルダン川を越えたのです。信仰と勇気が必要でしたが、何とか越えることが出来ました。約束の地カナンの地に立ったのです。しかし、これからはカナンの住民との戦争が待っているのです。自然と違い、油断をすればこちらが倒されるのです。ヨシュアの心は緊張しています。

 ヨシュアの任務は民を率いて、約束の地カナンで神の敵を倒して新しいイスラエルの国を作ることが任務でした。彼の心は重いのです。第1に民数記1章46節では20歳以上で軍務に就ける者だけでも60万人、家族を入れたら200万人以上のイスラエルの将来がヨシュアの判断にかかっているのでした。

 第2にヨルダン川の西側で準備し、ヨルダン川は信仰を持って渡ることが出来ました。川の水との戦い、自然との戦いには先ず勝てました。しかし、戦争をした訳ではありません。亡くなった人は誰もいません。これからは戦争です。戦争は作戦が必要です。

 第3に最初の敵はエリコの城なのです。これが第一戦です。これで勝てば波に乗れるでしょう。しかし、負けたら意気消沈して民は戦う気を無くすでしょう。第一線に将来がかかっているのです。

 第4にエリコの城の前に立ってみると、遠くで見るのと違い、見上げるような大きな城です。しっかりした城壁です。ちょっとやそっとでは攻め落とすことは出来そうにありません。敵の兵士の数、高い所から攻撃出来る敵の有利な立場を考えると戦う前から負けそうであります。

 ヨシュアは途方に暮れました。ヨシュアばかりではありません。私たちの信仰生活にも大きな問題が立ちはだかる時があります。教会やグループのリーダーとして私たちはどう対処すべきなのか、途方に暮れてしまいます。人数の問題、経済的な問題、一致の問題、非常に大きな問題で自分では立ち向かえそうに有りません。エリコの城の前に立ったヨシュアと同じです。

 そのヨシュアの前に何処から現れたのか分かりませんが、地から降って湧いたようにして、一人の人が抜き身の剣を手に持って現れました。ヨシュアは身構えて、黒い影に向って叫びました。「あなたは味方か、それとも敵か」。ヨシュアは60万人の兵士の隊長です。腕に自信があります。今まで何度も刀と槍で戦って来た歴戦の勇士です。敵なら一撃で倒す自信があります。

 その人物は「わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」と答えました。さすがにヨシュアです。その声の主が誰か直ぐ分かったのです。ヨシュアはひれ伏したのです。ヨシュアの判断は正しいものでした。この方は「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と言われたのです。神様がモーセに燃える柴の中から語った言葉と同じ言葉です。この方は神様です。

 ヨシュアはこの方に対して4つの事をしました。第1にこの方が主であること、神であることを見抜き、何の抵抗もせずにひれ伏したのです。この方に降参したのです。ある学者によるとこの方は地上に来られる前のキリストだと言います。

 第2にこの方は司令官として来たのです。軍の司令官はヨシュアですが、本当の司令官は本部から来たこの方です。この方はヨシュアの相談者としてヨシュアと作戦を相談するために来たのではありません。この方が司令官です。ヨシュアの上に立つのです。ヨシュアはイスラエルの最高司令官から一兵卒に位が下がるのです。この方が全指揮権を握るのです。ヨシュアはこの方に従ったのです。現場のリーダーの前に「私が本部派遣のリーダーだ。私に任せなさい」と言って来たようなものです。

 第3にヨシュアはこの方の前に謙り、現場のリーダーの全指揮権を明け渡したのです。彼はプライドをかなぐり捨てて、一兵卒となりました。ヨシュアも今までイスラエルの最高司令官として業績もあるし、経験も十分な人物です。

 第4に軍ではランク付けがはっきりしていて上司の命令には絶対服従であります。戦場で上司の命令に従わない時は死を意味するのです。軍では上司が突撃を命令したら、突撃、退却といえば退却です。自分の判断は許されないのです。ヨシュアはこの方に絶対服従を表明したのです。自分がイスラエルのリーダーではなく、この方が本当のリーダーであると告白したのです。

 ヨシュア記6章1〜5節を読みますと、本当のリーダーはヨシュアに奇妙な作戦を授けました。60万人の兵士が一日に一回エリコの町の周りを回れ、それを六日間続けよ。七日目だけは特別で七回回れと命じたのです。戦いの作戦としてこんな奇妙な作戦があるでしょうか。これでは戦いになりません。敵兵一人も倒れないのです。司令官の命令は絶対です。ヨシュアは馬鹿馬鹿しく見えるこの作戦に服従したのです。

 長い話を短くしますと、七日目に七回回って民が鬨(とき)の声を上げると、エリコの城壁は崩れイスラエルは大勝利を得たのです。服従は勝利に繋がったのです。ヨシュアの主に対する降伏はエリコの降伏に繋がったのです。ヨシュアが降伏しなければエリコも降伏しなかったのです。敵を降伏させるためには、先ず自分が降伏することが必要であります。

 現場のリーダーのヨシュアが本部のリーダーの神様に降伏せず、自分の作戦でエリコと戦ったら何が起こったでしょうか。沢山の兵士が戦死し、勝利も危なかったのではないでしょうか。自分の作戦に頼るよりも神様の作戦に頼る方が賢明です。自分の経験よりも神様の言葉の方が勝利への道なのです。

 私たちも自分のプライドを捨てて、ヨシュアのように5章14節「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」とひれ伏して、主に聞き従う者でありたいものです。自分のリーダーシップを捨てて本当のリーダーに従うことが勝利の秘訣だと思うのです。自分の降伏は敵の降伏に繋がるのです。降伏は勝利への道なのであります。
秩父教会 温井節子牧師
(ぬくい せつこ)




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