2015年8月のみことば

美しい門への招き

 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
                      (詩編100編3〜4節)

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。ペトロ、足の不自由な男をいやすペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
                   (使徒言行録2章36節〜3章10節)


 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」聖書は、立ち上がって美しい門へと招かれ、新しい歩みを始めた人について報告します。ペトロとヨハネが神殿へ祈りと礼拝のために向かいました。すると「美しい門」の傍らに、一人の人が座っています。生まれつき足が不自由なために、彼は他人によって毎日そこに置かれ、その日を暮らす施しを乞うていたのでした。この人にとって「美しい門」とは皮肉にしか聞こえなかったでしょう。美しい門を入って、神を讃美し礼拝すること、それは自分にとって一生無関係なことだと思っていた。当時は、身体が不自由であることは神の前に出るにふさわしくないとされ、神殿の庭へ入ることも許されていませんでした。ですから彼は、神の救いの外に置かれた存在だと自分自身のことを決めつけていました。

 そこへ、ペトロとヨハネとが通りがかります。二人はこの人をじっと見ました。それまでも施しをするため、彼を一瞥する人はたくさんいたことでしょう。けれどもペトロとヨハネのまなざしは、通りすがりに小銭を投げていく人たちとは明らかに違っていた。ペトロとヨハネはこの人をじっと見つめます。そのまなざしに、どのような思いが込められていたでしょうか。
 ペトロとヨハネは、座り込んでいる彼が抱える苦悩、その心の中を思い、さらに、かつての自分たちを重ね合わせていました。自分は神の救いの外に置かれている、自分は神とは無関係な存在だ、という彼の心の叫びは、実は彼だけでなくペトロとヨハネもかつて経験した思いに他ならなかったのです。

 ペトロとヨハネはイエス様の弟子であった。それも多くの弟子から特に選ばれた、十二弟子の中でも中心にいた弟子たちでした。イエス様の側近中の側近だった。それにも拘らず、イエス様の十字架を前にして、イエス様との関係を否認し、逃げ出してしまった。
 イエス様と親しく、近くにいた弟子であったからこそ、ペトロたちは、十字架の前から逃げ去り、主を否んだ自らを責めて苦しんだのでした。あのときイエス様を否定した自分たちは、もはや弟子ではない、神と無関係な存在になってしまった。そのような思いが心に渦巻き、苦しむ日々を過ごしたのでした。彼らもまたうずくまっていたのでした。

 その弟子たちに語りかけ、立ち上がらせ、新たに歩ませて下さったのは、他ならぬイエス様ご自身でした。今日の招きの御言、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書22章31〜32節)ペトロの離反を予告されつつ、なおそのペトロのために祈られた主のお言。そして復活なさったイエス様は、恐れおののいていた弟子たちの前に現れ、主と共にある喜びを回復させてくださいました。

 さらにイエス様が天に挙げられた後、集まって祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降りました。聖霊は、福音をあらゆる国の人に宣べ伝えるため、神の国建設へと邁進するため、弟子たちの上に降り、教会をお立てになります。ペンテコステ、聖霊降臨から始まったリバイバル、大伝道運動のうねりの中に、この「美しい門」における出来事がありました。
 美しい門の前で、ペトロとヨハネは「わたしたちを見なさい」と語ります。驚くべき言葉です。十字架のイエス様から逃げ出した過去を考えれば、およそあり得ない言葉を二人は語ります。この言葉を二人に語らせたのは、イエス様の祈りであり、聖霊降臨の出来事でした。ペトロとヨハネは、自らに誇れるものがあって「わたしたちを見なさい」と言うのではありません。誇れるものなど何もない、しかし「わたしたちを見なさい」と彼らが語るとき、それはキリストの体なる教会を、キリストの血によって新しく生まれ変わった人々を見るようにと示されています。

 キリストだけが人を立ち上がらせることができます。キリストが人々を救いへとお招きになります。ペトロは続けて言います「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って立ち上がらせました。ここに、キリストの名によって立ち上がる出来事が起こされました。
 彼は「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」。美しい門の傍らに置かれてはいても、その中に入って行くことのかなわなかった人、門を入って神殿で神を礼拝することは一生自分とは無関係だと思っていた人に、神の御業が現されました。躍り上がって立ち、門の内に入り、神を讃美する新しい人生が始まりました。キリストの名が、一人の人生を変え、神礼拝へと導きました。こうしてイエス・キリストに結ばれる人が新しく起こされました。

 私たちは皆、門を入って、神を礼拝する者とされます。かつて、神と自分は無関係だと思っていた私が、美しい門へと招かれ、キリストに結ばれた礼拝者とされました。美しい門、それは私たちの教会において「洗礼」と呼ばれます。神を否認していた者が、キリストに呼びかけられ、キリストの門を入り、神を讃美する人生へと変えられる。洗礼という美しい門がそこに開かれています。
 美しい門の出来事、それは新しく立てられた者たちの出来事です。一人の人だけが立ち上がったのではありません。くずおれ、うずくまっていた弟子たちもまた、キリストの祈りと聖霊降臨を受け、「わたしたちを見なさい」と福音を大胆に語る者として立ち上がらされました。

 「わたしたちを見なさい」それは世に向かって証する教会の姿です。キリストの体なる教会に結ばれた、キリストの弟子たちは皆「わたしたちを見なさい」と語り、美しい門の内へ新しい人を招く者として立てられています。洗礼を受けた救いの恵みは、決して私一人にとどまることなく、新しい魂を救いの門へ招くことへとつながっていきます。なぜならそこには、主イエス・キリストの祈りがあるから。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」かつて自分もうずくまっていた、しかし主イエスが祈り、声をかけてくれた。その恵みを知らされた私が、今度は「わたしたちを見なさい。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と声をかけ、右手をとって人を立ち上がらせる者とされるのです。

 祈りと讃美が私たちの生き方とされるとき、「美しい門」は今ここに出現します。主のからだの教会は、こうして世界に広まりました。上尾使徒教会もまた、ペンテコステの使徒たちから始まった大伝道運動の二千年の歩みを通して、創立され45周年を迎えました。その恵みを覚えつつ、今こそキリストの愛に応えて、「わたしたちを見なさい」と主を証しし、信仰の継承を祈る教会として、立ち上がらせて頂きたく願います。そこに私たちの感謝と献身の人生への門が開かれています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」
上尾使徒教会 松本 周牧師
(まつもと しゅう)




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