2015年10月のみことば

愛が、この素晴らしい世界を創った

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
                   (ヨハネの手紙T 4章7から12節)


 十戒の三番目に、「神の名を、みだりに口にすべからず」とありますから、直接的に神の名を表現することを、聖書は避けています。
 けれど聖書は、あえて、「この素晴らしい世界」を創造した方を、「神は愛なり」と記しています。
 創造主はまず、混沌すら無い「究極的無」に、「光あれ」と命じました。すると光が生じたと、聖書の創世記は冒頭に記しています。宇宙物理学的な表現をすれば、「ビッグバン」によって、宇宙の誕生が始まり、この世界の時間が始まった、ということです。それから6日をかけて、創造主はこの世界をお造りになった、と聖書はいうのです。

 現在の宇宙物理学者は、この宇宙のできあがってきた順序が、聖書の天地創造の順序と同じだと気がついて、驚嘆しました。
 なぜなら、3,400年ほど前に書かれた天地創造の記者が、現代の宇宙物理学のことなど、知るよしもないというわけですから、当然です。
 さらに驚くことには、創造主は愛であり、「神の愛」によって、この世界は誕生したというのです。
 創造主は、命あるものを創造され、その最後に、ヒトを他の生物と違って、特別に創造されました。
 創造主は、創られたヒトから本能を取り上げ、代わりに愛をくださり、さらに聖霊を吹き込み、霊的な存在とし、自分に似せて、人格的存在としてこの世に命を与えられたのです。

 そこでヒトは、この地上でたった一人、本能の欠落した生物となりました。
 そしてヒトは、本能という人生の台本を持って生まれていませんから、どう生きていいのか解らずに、道に迷ったり、思い悩んだりすることになります。
 ヒトは、本能に従って「自然界」の一部として生きるのではなく、「愛によって生きる」ように、創造主は、本能の代わりとして、ヒトに「神の愛」をくださいました。
 同時に、自由意志や科学する能力、理性というものもくださったのです。
 聖書や信仰というものと、現代の科学とは、相容れないものだ、と思い込んでいる人がいます。
 それは、大きな間違いです。

 創造主は、聖書に記述してあることや、「この素晴らしい世界」がどうして出来たのかを、科学する心で発見してもらうために、ヒトに科学する心、理性を与えたのです。
 たとえば、宇宙の端を見るためのハップル望遠鏡や、後続のジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡では、ビッグバンの残り火である赤外線(宇宙背景放射)の調査で、観測可能な宇宙の広さ、約137億年前(宇宙の晴れ上がり直後)に迫り、聖書の記述を確かめています。
 もしヒトを、自然の一部としてお造りになったら、「この素晴らしい世界」を発見し、造り主に気がつき、その中に生かされている自分を見つける者は一人も居なくて、この宇宙に「青い生命の惑星」が、ぽつんとあるばかり、ということになります。

 「この素晴らしい世界」に、たった一人、ヒトだけが気がつき、永遠なる者の存在を認識し、自分の存在に気づくのです。
 もしヒトが、特別な存在として創られなかったなら、この世界に気づく者は一人も無く、「この素晴らしい世界」は存在しているのに、結果として存在していないのと同じになってしまいます。
 道ばたの草花を見て感動し、夕焼けに心動かされ、永遠なるもの、創造主に思いをはせることができるのは、ヒトだけなのです。
 我という自分を発見し、創造主を認識して、ほめたたえ、賛美する者として、ヒトは、特別に創られたのです。

 そのようなわけで、ヒトは、本能ではなく、愛によって生きるように創られました。
 ですがここで、注意しなければならないことがあります。
 日本語の「愛」は、カクテルであることを知る必要があります。
 ギリシャ語で、「愛」は、4つほどあります。
 アガペー(神の愛)、フィリア(一般的隣人愛)、ストルゲー(親子の愛)、エロース(男女の愛)、などです。
 これを日本語では、全部「愛」と訳しています。
 すなわち、日本語の「愛」の中には、さまざまの愛がカクテルとなり混在していて、聞く者、語る者を、混乱させています。

 テレビなどで歌われる「愛」と、教会で言われる「愛」が、どう違うか、解りにくいのです。 
 ギリシャ語の4つの愛を、さらに大きく分けると、2つになります。
 最初の「神の愛」と、それ以下の3つは、人間世界の愛です。
 つまり愛は、「神の愛」と、「人間の愛」の2種類になります。
 創造主が、我等ヒトに、特別に本能の代わりにくださったのは、「神の愛」のほうです。

 「神の愛」は、本能ではありませんから、生まれたとき、それを誰一人持ち合わせていませんでした。
 では、いつ、どこで、ヒトは「神の愛」を手に入れたのでしょうか。
 「神の愛」は、自然に手に入れられるものではありません。
 「神の愛」を手に入れるためには、たった一つ、条件があります。
 それは、「神の愛で豊に愛されている、という体験」でのみ、手に入れることができるということです。

 「神の愛」と「人間の愛」の違いは何か、ということです。
 「人間の愛」は、最終的に、自分を生かそうとする愛です。自分だけが生き延びれば良い、とする自己愛です。これは、自己を保存しようとする愛で、誰もが生まれたときに持っている愛です。これがないと、その種の生物が、絶滅してしまう危険がありますから、必要な自己愛です。
 しかし、この自己中心的な愛だけでは、ヒトは、創造主が望む人間として生きることができません。この「自分を愛する愛」だけを皆が実行すれば、衝突が起き、争いが起きます。「人間の愛」は、自分だけが生き延びればいい、という愛だからです。
 いま世界中で、地域で、家庭の中で、この愛だけが実行され、争いが起きています。

 さてこの世界には、神様が用意された「神の愛」が必要です。
「神の愛」は、自分を生かそうとする愛ではなく、自己愛と同じ強さで、隣人を生き延びさせようとする愛です。
 隣人を生かそうとするこの愛は、その為に自分の命さえも、あっさりとささげてしまうほどの愛です。
 赤ちゃんを育てているお母さんを見れば、この「隣人愛」をすぐに見つけることができます。
 母親は、我が子を一生懸命愛し、お世話をし、育てます。
 もし我が子の命を救うために、母親の自分の命が必要だ、という場面に遭遇したとき、母親は、誰にも相談せず、躊躇無く、我が子の命を救うため、自分の命をあっさりと投げ出してしまいます。
 これが「神の愛」です。

 世界中で一番「神の愛」に近いヒト、それは、世界中の素敵なお母さんたちです。
 このお母さんに、ゼロ歳から8ヶ月ぐらいまでの間の、自我の成長が始まる前の時に、「神の愛」でどれだけ豊に愛されたか、という体験で、すべてのヒトは、「神の愛」を手に入れることができたのです。
 赤ちゃんからすると、「ああ、この人の懐に抱かれていると、まったく安心できる。この人は、信頼できる人だ」と平安を感じているなかで、「神の愛」の受け渡しという大切なことが起きているのです。この体験が、ヒトにはもっとも大切です。
 想像してみてください。
 生まれたての赤ちゃんという買いたてのパソコンに、なによりも最初に、人間に必要な基本ソフトをまず入れる、ということです。

 ヒトの一生で、一番平安を感じるのは、ただ一度だけ、母親のお腹にいるときです。
 生まれた後、このお腹の中にいた時と、どれだけ同じ平安な気持ちで母親に抱きしめられ、スキンシップを受け、母親の愛(基本的信頼)にどれだけ豊かに包まれたか、その体験の豊かさで、「神の愛(基本的信頼)」を手に入れることができ、赤ちゃんのその後の生存率を決定し、愛の量と生存率の両者は、パラレルであると、病理では指摘しています。
 言い換えると、母親の愛(基本的信頼)が足りなければ、赤ちゃんのその後の生存率も低くなる、ということです。

 聖書が、「愛なる神を見た人は誰もいない」というように、愛を見ることはできません。けれど、話の都合上、見えるような形で表現するのをお許しいただけると、こうなります。

 「神の愛」を百パーセント持っているのは、この世界の造り主の愛なる神様ご自身だけです。
 神様は、「神の愛」で、ヒトがヒトらしく生きるように創られました。
 「神の愛」を、赤ちゃんの時に母親に愛される体験で手に入れていますが、百パーセントの「神の愛」を手に入れたわけではありません。我が子を愛する母親自身も、赤ちゃんの時に体験で手に入れていますから、体験には、ばらつきがあり、どうしても低くなりがちです。
 母親が、「わたしはどんなに我が子を愛して育てたか」と、満足しても、子どもは、「お母さんは、お姉さんを可愛がって、わたしは、愛されなかった」と言うかもしれません。
 病理の先生は、どんなに素晴らしいお母さんであっても、6、70パーセントの愛ですね、と評価します。そして、もしお母様の中の「神の愛」が50パーセントを切って、赤ちゃんに「神の愛(基本的信頼)」が希薄になってしまうと、生存率だけでなく、心の中の病理学的な問題が起きてきますと指摘します。

 10パーセントの愛しかない母親の場合、赤ちゃんを車や部屋に放置して、パチンコに行ってしまったり、旅行に出かけたりします。
 これは、赤ちゃんの生命に、すぐに危機がおとずれ、生存率は低いです。
 40パーセントの場合、すぐに生命の危機はないにしても、「愛(基本的信頼)」が希薄ですから、そういう体験で育ったヒトには、人間不信が有り、相手と信頼関係を持つことができず、対人関係をうまく構築できず、不登校になったり、引きこもりになったりします。あるいは、集団生活ができず、授業を壊してしまうほどの問題児になったりします。極端な場合は、ニュースになるほどの事件を起こしたりします。

 でも、本人が悪いのではないのです。
 たいていの場合、本人の母親自身が、幼児期に、母の愛で包まれた体験が希薄の場合が多く、我が子に愛を表現できなかったことが、深い原因かもしれません。
 つまりヒトは、体験したことしか、表現することができないのです。
 ヒトは、体験しなかったことを、やってみせることも、語ることもありません。そこで、幼児期に愛されたことのない母親は、我が子を愛するとは、いったいどうするのかを、実は知らないのです。
 幼児期に、母親から暖かいハグをされたことのない少女が、こんどは自分が母親になったとき、我が子を暖かくハグしてあげることはありません。思い出そうにも、愛された、という体験がないからです。

 この愛情欠乏という負の連鎖が三代続いた三代目の少女が、女子高の屋上から飛び降りようとしたことがありました。幸い同級生が見つけて、引き止めることが出来て、未遂でした。カウンセリングの結果、愛情欠乏が三代続いた末のことだと解りました。
 さてそこで、子どもたちの困った行動の大半は、「神の愛(基本的信頼)」が希薄による表現で、切なる心の叫びだということです。
 本人の心の声は、こう言っています。
「わたしは誰からも、愛されていない。わたしは、どう生きれば、いいのですか。生きる価値があるのですか」と。
 わたしが以前いた幼稚園では、異常行動を取る園児は、愛情欠乏によるシグナルだと気がついて、幼稚園の先生方に、母親と面談をしてもらいました。
 ご家庭での様子をお聞きし、お子様は、愛情欠乏の状態ですから、母の愛を補う方法を、一緒に考えてまいりましょうと。

 外で怪我をして泣いて帰った子どもを、まず最初に、しっかり抱きしめてあげてください。その時母親が、よそ行きの晴れ着を着て、お出かけの直前であったとしても、汚れるのもかまわず、「それは、痛かったねぇ、もう大丈夫だよ」と、過去形で言ってあげ、しゃがんで、子どもの高さになって、子どもの顔を見てハグしてあげてください。母親にハグされていると、外で頑張っていた子どもの怪我やケンカ、いじめなどで欠乏した愛が補充されます。怪我したところを撫でてもらうと、脳に届く痛みの神経の量が半減します。泣き止むまで、そのままで、しばらくいましょう。泣き止んだら、初めて怪我の手当てをしてあげてください。
 「怪我をしたからね、後は、家で遊ぶかい?」と、尋ねてみてください。
 おそらく子どもは、「大丈夫、もう一度、外で遊んでくるよ」と、母の愛をたっぷり補充した子どもは、血の滲んだカットバンの膝も何のその、再び元気よく外に飛び出していくことでしょう。

 子どもにとって母親は、子どもという車を走らせる、愛のガソリン・スタンドです。
 子どもを元気にしているのは、食べ物だけではなく、母親の「愛」というガソリンなのです。愛をたっぷり給油した車は、再び元気にエンジン音を上げ、走り出します。
 そうなのです。
 安心してください。
 ゼロ歳から8ヶ月までの大事な時期に、「神の愛」が希薄で、問題があっても、親は、子どもに対して、母親の愛を補い、足りない愛を補充することができるという二回の修正ができるのです。

 一度目は、幼児期です。幼稚園の先生が気づくことが多いです。
 二度目は、思春期です。学校が気づいたり、家庭内暴力などで知られます。
 二度の修正があったとしても、「神の愛」を百パーセント手に入れることはありません。
 むしろ思春期の修正は、本人の心の叫びと、親の思いとが、親子という「感情の関係」の中で、こじれてしまうことが多いようです。

 さて、思春期も過ぎて社会に巣立っていった子どもたちは、その後、親からの影響をこころに受けることは、もうありません。親が子どもに精神的影響を与えられるのは、子どもの思春期までです。
 ここで、心配なことがあります。
 「愛(基本的信頼)」が希薄なまま、修正が出来ずに、子どもが世の中に歩み出してしまったら、いったいどうなるのか。
 極端に愛が希薄な場合、その人の周りに混乱を引き起こすことになります。
 学校のクラスでのトラブルメーカーと同じように、社会でも、人間関係がうまくいかず、トラブルメーカーをしてしまう恐れがあります。

 東北の農村で、「隣に倉が建と、腹が立つ」という言葉があります。幸せな隣人を、嫉妬する心を表現しています。自分の心に、神の愛が足りないとき、愛情たっぷりの人に会うと、ついその人に嫉妬し、にこにこしながら、幸せな人の足をわざと踏んづけてしまう自分が居る、ということです。
 ここまでお話ししますと、読者の皆さんは、わたしのことではない、と思うかもしれません。
 けれどこのことは、愛が希薄だった特別の人のような他人の話ではなく、実は、私たち全員が該当者なのです。
 なぜかと言えば、すべての人は、「神の愛」を、母親を介して、体験によって手に入れているので、百パーセントの愛を誰も持ち合わせてはいず、私たち人間の魂は、その深いところで、いつも「神の愛」を求めて渇望している、ということです。

 ヒトは誰も、神様の愛を百パーセント、持ち合わせてはいないのです。
 親からの修正が無くなった社会人は、愛情欠乏のまま、いったいどうすればいいのでしょうか?
 大丈夫です。
 神様は、ちゃんと救いの道をご用意なさっています。
 その答えは、聖書の中にあります。
 「神様は、ご自分のひとり子、主イエス・キリストをこの世にくださったように、この世を愛しています。何よりも、あなたの救いのために、イエス様は、命を投げ出して、愛を示してくださり、死から生命へと、あなたを引き上げ、助け出してくださいました」

 この聖書が言っている神様の愛は、どこか母親の愛に似ていますよね。
 聖書は「大丈夫です、あなたは、神様に愛されていますよ」と言っているのです。
 聖書のみ言葉に照らして、自分がどんなに愛の欠落した人生を歩んでいたか、自分自身の愛の欠落した姿に気がつき、イエス様が歩まれた愛の道を自分も歩こうと、人生の方向転換をするならば、誰でも、愛ある人生へと新しく造りかえられ、足りなかった「神の愛」を手に入れることが出来るのです。
 聖書の言葉が、読む人の血となり肉となったとき、それが単なる知識ではなく、「ああ、わたしは、神様に愛されているのだ」という実感、体験になったときに、足りなかった愛が、その人の器に、豊かに補充されることになります。
 そうなのです、自己修正によって、愛なる神様に出会ったヒトは誰でも、「神の愛」を充分に手に入れることが出来るのです。

 教会では、この自己修正を、「悔い改め」と言います。
 クリスチャンは、毎週日曜日に、神様の愛を補充するために、神様の愛のガソリン・スタンドの教会へ、神様の愛を補充し、生きる力と勇気をもらうために出かけていきます。
 神様は、ヒトを、特別に「神の愛」で生きるようにお造りになったのですから、どなたも、近くの教会へお出かけいただいて、それが本当かを、ぜひお確かめください。
 埼玉地区には、たくさんの教会があります。
 自分にぴったりの教会が必ずありますから、いくつかの教会を体験してみてください。
 そして、心からの笑顔を、手に入れましょう。

 赤ちゃんが持って生まれた笑顔は、お腹の中で練習してきた、原始的微笑です。この笑顔で、母親が育児放棄しないように、赤ちゃんは生き延びてきました。5万年前からの話です。この原始的微笑は、生後8ヶ月頃に、人間の普通の微笑に取って代わります。
 笑いには、11種類あるのですが、神様から愛されていると実感している人は、心からの微笑みで毎日を生きています。ヒトだけが持つ笑顔は、神様からのプレゼントです。
 地球上のすべてのヒトが、この喜びの中にあるなら、宇宙にぽっかりと浮かんだ、「青い水の惑星」には、神様の愛による笑顔が満ちあふれているということです。
 あなたも、そのお一人です。
久美愛教会 遠藤公義牧師
(えんどう きみよし)




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