2015年11月のみことば

わたしが示す地に行きなさい

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」
 アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
                   (創世記12章1〜9節)


 世間では、ハロウィンが終わり、いよいよ街中はクリスマスシーズン到来ということで、店頭にはクリスマス用品がずらりと並べられ、装飾もされてきました。楽しい雰囲気に変わっていく街中があります。しかし、私たちは、その楽しさに流されないよう、本当のクリスマスの意味を味わい、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための準備を、今から備えていきたいと思うのであります。

 さて、創世記の初めの部分において、神さまのご計画とは無関係に自分の運命を決めようとする人々のことが記されていましたが、この12章においては、神さまのご計画のままに、それに従って歩んできた人の物語が記されています。神さまは、アブラハムに「わたしが示す地に行きなさい」とお語りになり、それに従った彼は、「信仰の父と」呼ばれるようになった、その誠実な信仰が示されているところになります。

 聖書をご覧いただきますと、アブラハムではなく、「アブラム」という名前になっています。「アブラム」という名前は、「偉大な父」という意味があり、創世記17章まで「アブラム」と呼ばれています。17章4〜6節において、神さまは「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」とお語りになっています。「アブラム」から「アブラハム」へと名前が変わることで、アブラハムは「諸国民の父」という名前を背負って生かされていくのであります。それが、「信仰の父」と呼ばれるゆえんであります。

 創世記12章から始まるアブラハム物語の初めは、カルデアのウルという町から始まります。アブラムの父「テラ」は、孫のロト、アブラハムの妻サライを引き連れ、カルデアのウルから旅立ち、ハランの町に向かって旅をしていくことになりました。そのハランでアブラハムの父テラは生涯を終え、アブラハムへと焦点が移っていきます。「あなたは故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」とお語りになった神さま。このお言葉によってアブラハムの人生は大きく変えられてしまうのであります。家族で過ごし住み慣れていたハランの町を、父の死後、その町を出ていきなさいと神さまのご命令が下りました。出ていきなさいという神さまのご命令であったとしても、簡単にそこを出ていくことは可能でしょうか。それに、目的地は「わたしが示す地に行きなさい」ということだけです。神さまが示される場所とはどこなのでしょうか。アブラハム一行は、目的の分からない旅へと出かけていくことは不安でいっぱいであったと思うのです。

 ハランの町では、生活の基礎が出来上がり、羊飼いとして必要な牧草地も井戸水もちゃんと確保されていた場所でした。また、羊にとっても、危険の少ない土地でもありました。ハランの町であるならば、これまでの体験で学んだ知恵と知識を生かして、守られた生活が送れるという、目に見えない大きな財産を彼らはもっていたのです。さらに、親しい親族と離れることの辛いことであったと思うのです。私たちが引越しをするとなったとき、そう簡単に引越しできるものではありませんし、そこで築かれた友だち関係、住み慣れた町を離れることはとても悲しいことではないでしょうか。きっとアブラハムも悲しい思いはあったのではないでしょうか。

 アブラハムは、とても信仰の強い人でありましたが、神さまの約束だからと言って、目的地の分からない旅というのは、大きな不安があったはずです。しかし、アブラハムは神さまのお言葉を受け入れ、その命令に服従していくことを選び取りました。神さまを知らない人からすると、なんて無謀なことを、と言われるかもしれませんよね。私たちも、入念な計画を立て、準備したとしても、実際にその通りになるとは限りません。むしろ、知恵と力を頼みにしていったことでうまくいかず、絶望してしまうことさえあるのです。私たちの計画というのは、どんなに完全なものとして組み立てたとしても、そこに神さまのみ旨がなければできないものになっているのです。だから、アブラハムは人間的計画を捨てて、信仰によって神さまのご計画を受け入れたのであります。「わたしが示す地に行きなさい」とは、神さまは生きて働き、共にいてくださるお方であることを信じなさいということであります。その神さまへの信仰によってアブラハムは旅立つのであります。

 続いて神さまは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」とお語りになりました。大いなる神さまの祝福が約束されていることが明らかにされました。すなわち、神さまの保証が約束されたのであります。そして、アブラハムは「主の言葉に従って旅立った」のであります。では、なぜ、この目的地の分からない旅が必要であったのでしょうか。カルデアのウルもハランの町も、偶像崇拝の町でありました。これから行くカナンの町もそうです。「あなたは故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」とは、自分の属しているもの、自分が依存しているものから、別れ、離れることがまず必要なことでありました。すなわち、神さまに依り頼むことを始めるために必要なことであり、自分を神さまのものとして聖別することを命じられたのであります。

 このように神さまへの服従には、かみさまからの真の祝福が伴うことが約束されているのです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6) と新約聖書にも記されているとおりです。

 アブラハムはハランの町を旅立ち、最初に通った場所が、シケムの聖所、モレの樫の木というカナン人にとって聖所と言われる場所でありました。その場所に祭壇を築き、主の名を呼んで礼拝をしました。さらに、そこから神さまの示される地へと旅立っていきます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8) アブラハムが神さまのご命令に服従したことは、この地のすべての人々の祝福の基となりつつあったのであります。アブラハムは、一見この世を捨てたというよう見えるかもしれないアブラハム。けれども、最も深くこの世と関わりつついきているのです。父なる神さまは、「その独り子を賜ったほどにこの世を愛され」、この世と関わられるお方であります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1) この信仰に立ちながら私たちの備えられた人生を全うしたいと思うのであります。

 神さまの「わたしが示す地に行きなさい」と、このお言葉を読むごとに思い出される賛美の歌詞をご紹介したいと思います。

「約束の地へ」
1.どこへ行くのか知らないままに ただ信じて旅に出かける
何もいらない 主がくださった たったひとつの約束だけ
※ときには幾月も歩き続け ときには幾年も待ち続け
空を見上げ 星を数えながら 変わらない確かな 約束の地へ
2.わたしはあなたを祝福すると すべてがあなたからはじまると
見えない足元を照らす光は たったひとつの約束だけ

 神さまの「わたしが示す地に行きなさい」とのお言葉は、私自身とって大きな影響があります。それは、神さまは私をいったいどこへ遣わそうとしているのだろうか、神さまは私にどのような働きを与えようとされているのか、なかなか具体的にならない現状に、思い悩むことが多々あります。アブラハムのように「主の言葉に従って旅に出ます」と、宣言できていない自分の姿があることにも気付かされます。けれども、「わたしが示す地に行きなさい」との神さまのお言葉は、揺らぐことのないものであり、小さな星粒のような私でさえも、たった一つの約束を守り通す使命があります。神さまからのご命令に従って歩むために、空を見上げながら、星を数えながら、変わらない確かなるものを信じて前へと進んでいく、今、その決心をするよう導かれていると思うのであります。目に見えないものに向かって突き進んでいく難しさは、信仰によってクリアできるものであることもアブラハムを通して教えてくださいました。その小さな一粒の星である私は、ただ神さまの約束を信じて一歩一歩前へと進んでいくことができます。それが神さまと共に歩むものだと思います。

 目の前が見えなくなったとき、一粒の星の光を見失わないように、「道しるべ」を備えてくださる聖霊さまがいてくださいます。神さまを信じる信仰に生きるならば、外面的にどんなに貧しく見える生活であっても、賛美と喜びで満たされます。神さまは祝福を約束してくださっているのですから、私たちの信仰は決して無駄になることありません。私たち一人ひとりのことを覚えていてくださり、豊かに導いてくださる神さまを信じ、生きた信仰をもって歩んで参りましょう。
毛呂教会 澁谷実季伝道師
(しぶや みき)




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