2015年12月のみことば |
主を迎える不安
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 (マタイによる福音書2章1〜6節) |
アドベントが始まり、主を迎える備えが求められるが、具体的にはどうすれば良いのか。一つは、イエス・キリストを自分の人生の主として迎えること。二つは、世界の完成の主、即ち、再臨の主を迎える準備をすることであるが、この稿では前者に限らせて頂く。 マタイは、第2章を東の国からの来訪者を記すことから始めている。しかし彼らは異邦の占星術の学者で、ユダヤ人から見れば、聖書(レビ記等)で禁じられている占いで生計を立てている蔑むべき人々である。加えて東の国とは、かつて経験した民族的侵略や神殿破壊という宗教的屈辱を余儀なくされた憎い敵・バビロニア帝国を指すはず。 その彼らがエルサレム到着後に、「ユダヤ人の王として生まれた方は、どこに居られますか。私たちは、その方を拝みに来たのです(2節)」と尋ねた。 ユダヤ人は、この言葉を聞き本当に驚いた。確かに、ユダヤ人たちは、救い主の誕生を待ち望んでいた。しかし、王の誕生を、異邦人と蔑み、敵と憎んでいる人々から、聞くことになろうとは考えもしなかった。それ故マタイは、読者に注意を喚起するために、原典では、驚くべきことが起こったことを表現する「見よ!」という言葉を1節で用いており、かつての文語訳・口語訳聖書ではそのまま訳しているが、新共同訳聖書では省略されており、個人的には至極残念。ともかく、驚くべきことに、王の誕生を告げ知らせるのに、神さまは異邦人であり、ユダヤ人の敵を用いられたことである。 それよりも大切なことは、王の誕生を耳にした者らの反応である。聖書は「ヘロデ王は、不安を抱いた。エルサレムの人々も同様であった(3節)」と記している。しかし結果的には同じような結末となるが、両者の不安の内容は全く別。 ヘロデ王は、王である故に「新しい王が生まれた」ということは、とりもなおさず「自分が王でなくなること」を指す。 ヘロデ王は、王としては優れた面があり、21世紀の現在も残るエルサレム神殿の基礎改修工事を行い、飢饉が起こると私財を投げ売ってローマから食料を購入し、民に配布している。しかし、自分の王位を狙う者への猜疑心は尋常ではなく、その可能性のある二人の息子、妻までも殺したと伝えられている。 こんな王が、何があろうと王位を譲るはずはない。しかし、自分を窺う者がいるという不安は拭いきれない。そこで、王の誕生に関する情報を集め、不安材料を解消すべく、情報を基に、ベツレヘムでの幼児虐殺を実施したのである(マタイ;2章16〜18節)。 今一つの民の不安は「あのヘロデ王が、王の誕生を聞いて、このままでは済むはずがなく、何をするか分からない」という不安。しかも、その不安が的中し、結果的には、前述のベツレヘムでの幼児虐殺となった。当時のベツレヘムは人口はせいぜい500人くらいの小さな村で、2歳以下の幼児もどんなに多く見ても10人くらいと思われるが、家族・親戚がおり、近所の人も同情し、村全体の悲しみに広がったことは間違いないこと。そして、この時に誕生した幼子イエスも、約30年後には、このベツレヘムに於いても「私を信じなさい」と語った可能性もある。福音書には、その記述はないが、その時に健在であった虐殺された家族は、どのような反応をしたのだろうか・・。 私たちは、礼拝に於いて聖書を共に聞くたびに「人間は罪人である」と気づかされる。勿論、その内容は、窃盗であったり、人を傷つけたりすることでなく、神さまへの背きであり、神さまの栄光を汚していることにほかならない。 改めてこのような罪の根源は何かと考えると「自分中心」であり、「自分の栄光」を求めていることにあるだろう。つまり、私たちは、誰もが「王」でありたいと願っているのである。「私は<王>という大それたことなど考えてはいない」と言われるかもしれないが、実態はそうではないか。 そう思うと、自分を中心とする世界が進んでほしいとか、人生の中心にこそ自分がいて力を発揮すべきであると考えることなど、全てが聖書が語る罪に直結している。 つまり私たち一人一人は皆、あの王位に固執したヘロデ王と考えざるを得ないのである。 ということは、このアドベントに考えるべきこと、準備すべきことは、自分が王位に就いていることに気づき、その座から下りることではないか。それなしに、王なる主を迎えることはあり得ないのである。 とはいうものの、このことがどんなに難しいかは、自分でも気づかないくらい難しい。 教会は、その難しさを分かっているが故に、その心を整える期間は、1〜3週間では足りず、アドベントを4週間と定めたと思われる。 今、私たちは、何を王とし、何を主としているだろうか。多くの場合は、自分自身であり、次いで見える力をそのように考え大切にしているのではないか。 よく考えて頂きたい。自分自身は勿論のこと、地上の力の実態は如何ほどのものか。確かに助けにはなるだろうし、地上の力を借りないと生活が出来ないことも事実。しかし地上の力に、どれほどの永遠性・信頼性があるだろうか。 永遠なる方は、神(の子)だけ!だからこそ、主なるキリストの赦しも永遠であり、その担保としてのご復活も当然のことでもある。 この方が天から降ってこられる。その方に、喜んで自身の人生の王位を譲り、逆に仕える姿勢を整える、これが今のアドベントに求められること。 よい準備を以て、ただしく主の降誕を祝いたいものである。 |
岩槻教会 小林 眞牧師 (こばやし まこと) |
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