2016年2月のみことば

キリスト教信仰と雛祭り

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

                 (イザヤ書53章 4、5節 )

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
                 (ローマの信徒への手紙6章23節)


 昔から、日本では、季節の変わり目を祝う習慣があります。特に、1月7日は「人日(じんじつ)」、3月3日は「上巳(じょうし)」、5月5日は「端午(たんご)」、7月7日は「七夕(たなばた、しちせき)」、9月9日は「重陽(ちょうよう)」と呼ばれ、これら五つの節日(せつじつ)は、「五節句」として、よく知られています。中でも、上巳は、女子の祝いの日として雛祭りが行われ、「桃の節句」と呼ばれます。来月3月3日は桃の節句です。

 桃の節句には雛祭りが行われますけれども、雛祭りと言えば「雛人形」です。赤い毛氈(もうせん)で覆われた豪華な雛壇の頂上には、輝く金屏風が立てられ、上から、凛々しい男雛に、しとやかな女雛、美しく着飾った三人官女に、楽器を持った五人囃子などが飾られます。各段は、桃色のぼんぼりや桃の花、赤・白・緑の菱餅などで彩られます。その色合いや精密さ、品のある美しさ、ここには、日本の美そのものが凝縮されているように思います。
 
 雛人形は、今でこそ、精巧な日本人形のような、大変美しい立体的造形物でありますが、元々は「雛(ひいな)」と呼ばれ、それは「紙などで造った人形(ひとがた)」であったと言われています。「人形(ひとがた)」とは、「人の形をしたもの」で、「多く祓(はらえ)の時の形代(かたしろ)」とされたものであるとされています。「祓の時の形代」とは、簡単に言えば、御払いをする時の代替物、更に言えば、「罪を贖(あがな)うための身代わり」のことであると言えます。

 例えば、ある人から、災厄や罪過などを除き去るため(罪を贖うため)に、ある人の身体を紙や木で作られた形代で撫でて、ある人の災いを形代に移し、ある人の身代わりに形代を川や海に流すというわけです。このような行事は、「流し雛」を用いた「雛流し」として行われています。3月3日の節句の夕方、紙などで作られた形代(流し雛)を、川や海に流すのです(雛流し)。
 これらの事実から、そもそも雛人形は、形代、すなわち、「罪を贖うための身代わり」であったということが分かります。雛人形が、「罪を贖うための身代わり」だったということは、驚くべきことです。なぜなら、「罪を贖うための身代わり」とは、キリスト教における主イエス・キリストの存在そのものについて語られることでもあるからです。

 そもそも、罪とは何でしょうか。罪は、一般的には、法律上の犯罪や、社会の規範や道徳・倫理などに反することであると理解されます。キリスト教においては、聖書が罪というものについて語っています。
 特に、罪という言葉は出てきませんが、「創世記3章」における最初の人アダムとエバの、いわゆる堕罪物語から、罪というものが理解されます。この場合、罪とは、ただ単に法律や規範、あるいは道徳や倫理に背く行いという前に、神と人、神と私の関係の中で理解されます。
 すなわち、神の御前にある人間が、本来あるべき立場(愛する神の言葉に聞き従う立場)から、本来あってはならない立場(愛する神の言葉に聞き従わない立場)に堕ちることが、罪であるということです。

 それは、神の言葉に背く、という形で明らかになります。神の言葉に背いた人間は、ますます罪の泥沼へと飲み込まれて行きます。そこから、「ガラテヤの信徒への手紙5章19節」以下にあるような「肉の業」が展開されて行くのです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」このような罪が犯された場合、「神の国を受け継ぐことはできません」という結末に至ります。

 「ローマの信徒への手紙6章23節前半」は次のように語っています。「罪が支払う報酬は死です。」罪を犯す、ということは、罪という名の上司に仕える、ということです。その結果、その上司が与えてくれる報酬(報い)は、「死」なのです。
 それゆえ、どうしても罪を犯してしまう私たち人間は、この罪の問題を解決しないではいられません。なぜなら、罪の問題を解決しないということは、その報いとしての死を受け入れるということになるからです。

 古来、人々は「罪を贖うための身代わり」を用いることによって、その罪の問題を解決しようとしてきたのです。その一つのあり方が、先に述べた雛流しにおける流し雛の存在です。
 そこでは、流し雛が、罪人の「罪を贖う(償う、解決する)ための身代わり」とされるのです。愛する子や孫、あるいは家族や地域の人々を想い、その罪や過ちを流し雛に移すことによって、愛する者を災いや裁きから守ろうとした古の人々の深き愛情を思う時、私は、熱い感動を覚えないでは、いられません。
 しかし、私は言わねばなりません。流し雛によって、愛する者の罪や過ちが贖われることは、決して無いと。なぜなら、流し雛は、紙や木、あるいは土など、単なる物質で作られた物体に過ぎないからです。贖いがなされる場合は、少なくとも、その贖われる対象と同等の価値を有する存在が身代わりとされなければなりません。紙や木、あるいは土などは、私たち人間と同等の価値を有するものとは言えません。だから、そのような物体が、私たち人間の身代わりになれるはずがないのです。私たち人間は、物体ではないのですから。

 では、一体どのような存在が、私たち人間の「罪を贖うための身代わり」となり得るのでしょうか。聖書は、神の子イエス・キリストが、「罪を償うための身代わり」となるという恵みの知らせ(福音(ふくいん))について、語っています。神の子イエス・キリストが、私たち人間の「罪を贖うための身代わり」となられたことについて語る聖書箇所を紹介します。
 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章 4〜5節 )

 主イエス・キリストが、十字架にかかって死んでくださったのは、私たちの罪の裁きの身代わりとなられるためだったのです。主イエス・キリストの十字架、それは歴史の単なる一ページではありません。それは、全宇宙的歴史を、私たちの人生を、神の救いに導く唯一の普遍的な出来事なのです。この方の死を通して、また、このお方の復活を通して、罪において死に、悪において滅びるべきであった私たち人間に、罪の赦しと永遠の命が与えられたのです。

 主イエス・キリストは、神の子であられ、救い主であられます。故に、このお方は、私たち人間と同等の価値を有するどころか、私たち人間の価値とは比べものにならない、いや、比べてはならない、貴い存在、聖なるお方、神であられるのです。だから、このお方は、一人の人間の贖いばかりではなく、全人類の贖いを成し遂げられるお方なのです。このお方を信じ、洗礼(バプテスマ)を授けられるキリスト者は皆、救われるのです。
 「ローマの信徒への手紙6章23節」は、次のように語っています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6章23節)

 私たち人間は、唯一のまことの神に対して、「罪を贖うための身代わり」を差し出すことはできません。紙や木、あるいは土などで作られた物体を身代わりとすることはできません。私たちは、そうするための方法を、一切所有していないのです。しかし、神は、私たち人間を愛し、私たち人間を罪と死から救い出すために、神の御子、主イエス・キリストをお遣わしくださり、「罪を贖うための身代わり」としてくださったのです。
 ですから、主イエス・キリストは、罪深い人間に対する、神の愛そのものであります。神の憐れみそのものであります。私たちは、このお方を信じて初めて、罪からも死からも解き放たれて、まったき平安のうちに、神と共に、また愛する人々と共に、永遠に生きる者とされるのです。

熊谷教会 大坪直史牧師
(おおつぼ なおふみ)




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