2016年3月のみことば |
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 (マタイによる福音書19章13〜15節) |
マタイによる福音書19章13〜15節は、子どもと関わるキリスト者が、子どもに関するキリスト・イエスの教えとして、心に留め、大切にしている聖書の箇所です。 19章は、「イエスは・・・ガリラヤを去り・・・ユダヤ地方に行かれた」と始まります。イエス様と弟子たちが、エルサレムに向かって、一歩を歩み出します。このような時、ファリサイ派の人々が近寄り、イエス様を試そうとします。彼らの敵意は、十字架にかけて殺そうとするまでになるのです。 ファリサイ派の人々が「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問します。イエス様は、創世記1章27節や2章24節をあげ、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」と答えられますが、ファリサイ派の人々は「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように(申命記24章1節)命じたのですか?」と試すのです。イエス様は「あなたたちの心が頑固なので・・」と続けて結婚について教えられますが、弟子たちさえもイエスの教えに不満を言います。 こんな離婚についての律法をめぐって、ファリサイ派の人々がイエスを試そうとしている時です。子どもに聞かせる話題ではありません。また、イエス様に敵意を持つ男たちが囲んでいるという険悪な雰囲気もあったでしょう。 その時、そんな状況にはおかまいなしに、人々が子どもたちを連れて、ワイワイ、ガヤガヤ、ウェーンと、にぎやかにやって来たのです。ルカによる福音書18章15節は、「乳飲み子までも連れて来た」と記します。弟子たちはこの人々を叱りました。「今、先生は、ファリサイ派の律法学者先生方と、難しい大人の話しをしているのだ。子どもの出番ではない。迷惑だ。邪魔をするな。」というように叱ったのでしょうか。 しかし、イエス様はすぐに言われました。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と。マルコによる福音書10章14節は、「イエスはこれを見て憤り・・・」と記します。野外ですから、ガヤガヤする声に負けない大声で、弟子たちは子ども連れの人々を叱ったでしょう。イエス様も、そんな弟子たちを、そっと注意したのではありません。憤って、言われたのです。子どもたちではなく弟子たちのほうを「邪魔をするな!」と叱り、「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。 天の国は、子どものような者たちのものです。大人も、かつては子どもでしたが、子どもの頃を忘れてしまいました。子どものどんなところが天の国にふさわしいのでしょうか。子どもだって様々です。この場面での子どもたちは、ただ、大人に連れて来られて、イエス様に手を置いて祈っていただいただけなのです。 礼拝に、幼子が親に連れられて来ています。知的・精神的な障がいのある人が、家族と共に来ています。子どもたちや、障がいのある人が、時には、礼拝の中に、別の物音を持ち込みます。動き回ったり、泣いたり、騒いだり、奇声もあります。そんな時、弟子のような人が、礼拝の場にふさわしくない迷惑な姿とみなし、本人や家族を叱るなら、イエス様は、憤って、「彼らが私のもとにくるのを邪魔するな!」と言い、守ってくださるお方です。だから安心して、遠慮なく、主イエスのもとに集うのです。その場で話されている内容をよく理解できず、その場の空気を読めず、ただ連れて来られた子どものような者たちを、イエス様は喜んで迎えられ、手を置いて祝福してくださるお方です。 大人は、理解力がある(子どもよりは)と自負しています。しかし本当は、話している相手の心を理解できず、身の回りの出来事・世界の出来事がこれからどうなって行くのか分からない者です。神のご計画を、たとえ前もって聞いていても理解できないのです。それなのに、自分がイエス様を試そうとして関わります。しかしそれでは天の国に入れません。天の国は神が治めるところであって、人が支配できるところではありません。 イエス様は、子どもたちに手を置いてから、そこを去られました。十字架への道を歩んで行かれました。 さて、今は受難節(2016年2月10日〜3月26日の期間)です。試され、敵意を受けられ、十字架への道を歩んで下さったイエス様のご受難を覚えつつ過ごしています。また、5年前の2011年3月11日から始まった苦難の日々のただ中にある方々を覚えます。3月は、4月からの進路によっては、別れがあり、嘆きがあり、不安がある季節です。地上の国々の危機的対立の中にもいます。今の困難な状況と将来をどう受け止め、どう解決したら良いのか分からずにいる事態です。 そんな時に、あなたも、埼玉地区ホームページ(の奉仕者)によって、イエス様のところへと連れて来られているのです。受難の後、復活されて、今も生きておられるイエス様のもとです。子どものようになれるでしょうか。大人は、聖書が告げるキリストの福音を、信じるに値するかどうかと自分を基準にして試し、つじつまが合わないではないかとあれこれ質問したいのです。自分で考え、議論し、進むべき道を選ぼうとするのが、大人です。しかしその方法は、天の国へと通じる道でしょうか。子どものように、救い主イエス様の祝福を受ける。主イエス様に手を置いて祈ってもらった子どものようでなければ、天の国には入れないと、イエス様ははっきり言われます。 イエス様は、エルサレムに向かう途中、死と復活を予告されました。しかし、弟子たちは理解できませんでした。神のご計画が実現し、死んで復活されたイエス様に出会った時、ひれ伏した(礼拝した)のです(マタイによる福音書28章9節、28章17節)。教会は、今も生きておられる救い主イエス様に出会って、礼拝し、証しする者たちの群れです。様々な個性の人々が、様々な状況にある人々が、子どものように連れて来られて祝福を受ける礼拝は、天の国の姿です。 今年は3月27日(日)が、復活日(イースター)礼拝です。この日に、教会は、洗礼式をします。洗礼式では、牧師が、洗礼を受ける者の頭に手を置いて祝福をいたします。今も「教会」という「キリストの体」を通して、救い主イエス様から子どものように祝福され、天の国に入る者とされる出来事が起きているのです。 神のみ子イエス様を通して、天の国に招かれています。神のみ心を知らずに振る舞っていた私たちの罪を赦し、祝福してくださる救いへと招かれているのです。子どものように救い主イエス様の祝福を受け、受難節から復活節へと、主と共に歩む3月の日々でありますようとお祈り致します。 (祈り) イエス・キリストの父なる神様、あなたの招きを感謝いたします。主のもとに行き、主に手を置いていただいて祝福を受け、子どものように主に信頼しながら歩む者へと、新たにしてください。十字架と復活の主が、苦難・挫折・不安の中に置かれている者と共に在って、慰め励まして下さいますように。埼玉地区の諸教会・伝道所の働きに、祝福をお願い致します。主のみ名によって祈ります。アーメン |
久喜復活伝道所 山野裕子牧師 (やまの ひろこ) |
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