2016年4月のみことば

外から来る

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
                   (マタイによる福音書5章43〜48節)

  数年前のテレビ番組で、アメリカのベストセラー作家が自分の創作活動についてこう語っていました。
 「アイデアは外から来るものです。創造性は外から来るのです。ですからスランプになったとしても、そのことで悩みません。なぜなら、それはアイデアがまだ来ていないだけだからです。自分としては、アイデアがいつ来てもいいように、自分なりに準備をしておくことに尽きます。外から良いアイデアが飛び込んできたら、それをとらえていつでも作品にできるように、作家としての力の維持にひたすら努めるのです。」

 この作家は、良いアイデア、ひらめきは、外から与えられるものだと考えています。そして、このことをさらにイメージ豊かに伝えるために、次のエピソードを紹介しました。
 「トム・ウェイツというミュージシャンが、車を運転しハイウェイを走ってしました。すると、とてもいいメロディーを思いついたのです。でも、すぐに車を止めることができませんでした。せっかく思いついたメロディーをメモすることもできないし、ICレコーダーに吹き込むこともできない。そのときトム・ウェイツはハンドルと握りしめたまま、天を仰いで叫びました。『ちょっと、聞いているか? なぜ今なんだよ。 両手がふさがっているんだぞ!』」

 アイデアが自分の外から来るというこのイメージは、とても興味深いと思います。というのも、聖書が示している救いも、わたしたちの外から与えられるものだからです。
 今日の箇所は非常に有名な箇所です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」そして、ほとんどの人が厳しいと感じる言葉です。それもそのはずです。これは、わたしたちの内側からは出てこない思いだからです。

 わたしたちは、自分を愛してくれる人は愛することができます。また自分の親しい人には挨拶をします。わたしたちの内にある親愛の情はこの程度です。しかし、キリストは「敵を愛しなさい」とおっしゃいます。敵を愛する愛は、わたしたちの心の中に自然に備わっているわけではありません。また、わたしたちの内面にある比較的、愛に近い感情を見つけて、そのかけらを育てていけば、やがて敵を愛するようになれる、ということでもありません。敵を愛する愛は、わたしたちの内面から自然に湧き上がってくるものではないのです。

 ですから「敵を愛しなさい」と言われて、自分の心の中をいくらのぞいてみたところで、出てくるのはため息ばかりです。ない物をさがしているわけですから。では、それはどこにあるのでしょうか。内側にないのですから、外から与えられるしかありません。
 敵を愛する愛は、神の愛です。神が人間に注いでくださった、とてつもない愛。その愛をもって敵と関わることが求められています。この神の愛について、使徒パウロは次のように記しています。
 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5章8節)

 「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマの信徒への手紙5章10節)
 神はご自身から離れてしまったわたしたちのために、御子キリストの死を通して和解の道を用意してくださいました。神から離れて、神なしでもやっていけると思っている者は、本来ならば神から見捨てられてもおかしくありません。しかし神は御子キリストを犠牲にして、ご自身の方から救いの御手を差し伸べてくださいました。わたしたちの心のあり様を一切問うことなく、そうしてくださったのです。神は、悔い改め具合で救いの程度を変えたり、あるいは信仰の深さに比例して恵みを調整したりするなどということはなさいません。人間の心のあり様とは関係なく、等しく愛を注がれます。悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせてくださるのです。

 わたしたちの心はかたくなです。愛してくれる人しか愛せませんし、親しい人にしか挨拶したくありません。素直に隣人と呼べる人たちには出来る範囲で親切にしようと思いますが、あくまでも出来る範囲にとどめようとしますし、まして、敵対する人にはそんな気持ちは起きません。神の深い愛から遠く隔たっているのが、わたしたちの心のあり様です。
 けれども、そのわたしたちに神はキリストを与えてくださいました。神から離れてしまっているにもかかわらず、その咎(とが)をわたしたちには負わせず、代わりに御子キリストの命を犠牲にしてくださいました。それは、わたしたちを変えるためです。わたしたちを神の子とするためです。キリストを通してこのわたしたちを天の父の子とするためです。

 救いは外から来ます。わたしたちの外から神がそのように働きかけてくださいます。わたしたちの内面がどれだけ情けなく、惨めであったとしても、またたとえどんなに荒んでいたとしても、そんなこととは一切関係なく、外から救いが来るのです。わたしたちの心のもち様とはまったく関係なく、ただキリストのゆえに、わたしたちは神の子とされるのです。
 愛することは、教えられてできるようになるものではありません。深く愛されてはじめて、その愛を通して自分も愛することができるように変えられていきます。わたしたちは神に敵対する者であったにもかかわらず、わたしたちの外側で、わたしたちのための救いの出来事がすでに起こり、成し遂げられていました。わたしたちが気づくよりもずっと前に、キリストの十字架と復活の出来事によって救われていたのです。

 そしてその救いの出来事の知らせが、今、外からわたしたちに告げ知らされています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」このキリストの言葉は、わたしたちへの祝福の言葉です。わたしたちの内面からは決して湧き起ってこない愛が、キリストを通してすでにわたしたちに与えられていることを示しているからです。
東大宮教会 久保島理恵牧師
(くぼしま りえ)




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