2016年5月のみことば

子供のようになる

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
                   (マタイによる福音書18章1〜5節)

 福音書には子供たちのことが登場します。赤子、小さき者、幼子と幾つかの表現があります。2つの際立った特徴があります。1つはその弱さです。赤子は小さく無力です。大人に助けられなければ生きていけない。大人が養ってあげなければ生活できない、そのような弱い、小さい存在。2つめは謙遜です。幼子は等身大です。大人に肩を並べようとしない。見栄を張ったりしない、変なプライドがない、恥をかくのを恐れない。そのままの姿で、子供であることを喜んで生きている。変な欲がない。目の前にある物で満足している。「心の貧しい者は幸いである」とイエス様はおっしゃいました。心貧しい、つまり心低い、謙遜な幼子の姿。

 イエス様はおっしゃいました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」神の国に入るのは幼子のような者である。弱さ、そして小ささと謙遜を持った人が神の国に入れるのである、と言われます。

 この2つの特徴、弱さ、そして小ささと謙遜というのは、イエス様ご自身に見られます。イエス様はおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 マタイによる福音書11章28節-29節

 イエス様は小さな赤子の姿で母マリヤから生まれました。小さい、無力な、養ってもらわないと生きていけない赤子として、私達と同じように乳を飲み、離乳食になり、はいはいからつかまり立ちになり、少しずつ少しずつ育って行かれました。世の時流においてもそうでした。生まれた時の権力者が、救い主が生まれたというニュースに脅威を抱いて、イエス様を殺そうとしました。社会の大きな力に、文字通りつぶされそうになりました。それを天の父が御使いを遣わして守って下さったのです。社会的に弱い立場、小さい立場であるということを、身を持って体験されました。それと同時に、神がそこに確実に働いて、難を逃れさせて下さる、ということを体験されたのでした。私達の救い主は、幼い頃に二重の意味で、弱さ、そして小ささを、身を持って体験されたのでした。

 イエス様は、その生涯の終りにおいても弱さ、そして小ささを体験されました。その時代の権力者の手に身を委ねられました。宗教的指導者がイエス様を目の敵にし逮捕し、裁判にかけました。ローマ兵(警察や軍隊という国の権力)がイエス様を連行し、拘留し、鞭打ちました。ローマ帝国の支配者がイエス様を裁判で裁き、有罪とし、極刑を下しました。ローマ兵が十字架を負わせ、はやし立て、侮辱し、十字架にイエス様を横たえて釘を打ちました。

 旧約聖書には既に、救い主がこのような目に遭うと預言されていました。「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」イザヤ書53章6節-8節
 私達の救い主の弱さと小ささ。その33年半の地上の生涯の最後における弱さ、そして小ささ。そして謙遜さ。

 私がクリスチャンになったのは22才の時でした。キリスト教もクリスチャンも嫌いで避けていました。ミッション系の大学で必須だったキリスト教入門では、牧師による授業を避けて大塚久雄先生という社会歴史学者による授業を選びました。お話を聞き、その謙遜な姿に心動かされました。一番心に残った言葉です。「キリスト教というのは、教祖と見なされる人が、救いのために自ら命を捨てた。こんな宗教は世界中探しても他にない」。キリスト教のすごいところは救い主イエス・キリストご自身が私達を救うために命を捨てられたことです。」救い主イエス・キリストの弱さ、そして小ささ、謙遜さ。

 主は言われました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」 弱さ、そして小ささと謙遜において、主にならう者となる時に神の国に入れていただける、それがこの聖書箇所の教えです。主は語りかけて下さいます。幼子を見てその弱さ、そして小ささ、謙遜さに目を留めなさい。それにならいなさい。私にならいなさい、神の国を目指しなさい、神の国の市民として相応しくこの地上生涯を歩みなさいと。

 一般的に私達は強くなりたいと願う傾向があるかもしれません。大きいもの、立派なものを好み、成功した姿、ピカピカした姿を欲しがるものです。傷が1つもないキレイな姿を良しとしますし、傷も痛みもない状態を願うのです。しかしイエス様は弱さ、そして小ささを受け入れ、それを担い、甘んじられました。使徒パウロも「わたしは弱さを誇る」と言いました。「それは神の力がわたしの弱さに働くからだ」と語りました。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」 弱さ、そして小ささを受け入れる、担う、そのような歩みをさせていただきたいものです。傷があっても、病があっても、痛みがあっても、それで良しとする。癒しのために祈るでしょう。主が癒して下さればそれはハレルヤですが、癒されないのであれば、弱さを担っていくことが御心であると主が示して下さるのであれば、喜んで弱さを誇ると言えるまでに、主の恵みで覆っていただきたいと思うのです。

 医療技術が進んで、延命治療をどこまでしたらいいのかという議論があります。昔だったら、そこまで治療できなくてスーッと死を迎えることができたのが、今は判断がどんどん難しくなっています。強くありたいという願望と共に、健康でありたいという願望が強くなりすぎているのでは、と思うことがあります。健康ということが偶像になっていないかと考えさせられます。主が許される傷や病や痛みがあったとするなら、その弱さも受け入れる、担う、「弱さを誇る」と言えるまでの信仰があると、1つの突破口になるのではないかと思わされます。

 自然災害に遭う方々があり、痛み悲しみがあります。そこに光を与えてくれるのは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と釘跡の付いた両手を広げて招いておられる主、弱さも痛みも悲しみもご存知の主、そこに寄り添って下さり、休ませて下さる主、ではないでしょうか。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、…わたしに学びなさい。」と主は語られます。弱さ、そして小ささを担われた主を思う時、キリスト者である私達は、この主にならいたいと願います。聖霊なる神がそのことを成し遂げて下さいます。謙遜において主にならう者とされたいと思います。聖霊なる神がそのことを成し遂げて下さいます。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」 弱さ、そして小ささと謙遜において、主にならう者となる時に神の国に入れていただける。天から糸を垂れて、憐みの目で見つめるだけでなく、天から地に実際に来られて、この世の中の辛苦を経験され、私達の罪をすべて負って下さったイエス様。私達の罪の肩代わりをして下さり、帳消しにして下さって、私達を罪から完全に解放して下さったイエス様。聖霊を送って下さって天国へと伴って下さるイエス様。この御方が私達をしっかりと握って下さいます。柔和で謙遜な主にならう歩みを、続けさせていただきたいと願います。

志木教会 横山好江伝道師
(よこやま よしえ)




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