2016年6月のみことば

わたしの弟子にしなさい

イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
                   (マタイによる福音書28章18〜20章)

 私は、日本基督教団の伝道者として献身し、教会に仕えて41年になりました。東京教区南支区の柿ノ木坂教会2年8ヶ月、中部教区福井地区の福井神明教会10年4ヶ月、関東教区埼玉地区の大宮教会28年、主と兄弟姉妹たちに仕えて来ました。
 3つの教会は、それぞれに何らかの教派的伝統を引き継いだ歩みをしています。その教派的伝統を重んじながらも、主の御心とする教会とは、どのような教会形成を目指すことなのかと何時も問い祈りつつ主に仕えて来ました。

 イエス様は、フィリポ・カイザリア地方に行かれたとき、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤ』とか、『預言者の一人だ』と言うひともいます。」と言いました。そのとき、イエス様は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われました。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。すると、イエス様は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われたのです。(マタイによる福音書16章13〜19節参照)
 イエス様は「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と言われています。「この岩とは「あなたはメシア(キリスト、救い主)、生ける神の子です」とのペトロの信仰告白を意味し、その信仰告白の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」と言われています。教会は、イエス様の教会なのです。

 教会は、イエス様をキリストと信じ告白する人々の群れであります。しかし、人間の群れである以上、人間の罪がもたらすさまざまな問題が起きて来て、これがイエス様の教会なのだろうかと思わされる事態が起こっています。ですから、牧師就任式の時、教会員の誓約の中に「あなたがたは教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和ぎとをもって行い、ことごとに相慰め、励まし、支えて、牧師にその職を全うさせることを約束しますか。」と問われています。どうしたらイエス様の教会が建て上げられるのでしょうか。
 大宮教会は、1993年に新会堂建築をする中で、「開かれた教会」と言うことが主題で長老会は幾度も集まって研修をしました。その中で、教会が開かれるということは、会堂使用をどのようにするかの問題ではなく、信徒一人一人が開かれなければならないことに気づかされました。キリストの体の一員として、一人一人が主と向き合って応答することの大切さを知らされました。復活されたイエス様が、弟子たちに「すべての民を私の弟子にしなさい」と命じておられますように、信徒の一人一人が主の弟子としての自覚を持つことの大切さを知らされました。

 「すべての民を私の弟子にしなさい」と言うことは具体的にどのようなことかと考えていた時に、韓国のサラン教会が主催する「弟子訓練指導者セミナー」に誘われて参加し、信徒が主の弟子として育つことの大切さとその手法を学ぶことができました。長老会でそのテキストを用いて学び、1996年1月より「主の弟子訓練」を信徒訓練として取り入れ、試行錯誤しながら今日に至っています。

 信徒は皆、主の弟子です。
日本では「弟子」と言うと、一般に茶道や華道を教える師匠と習う弟子の人間関係を想起されます。しかし、イエス様の言われる「わたしの弟子」とは、「イエスはキリストである」と信じる者に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」られた者であります。そして、洗礼を受けた主の弟子に「命じておいたことをすべて守るように教えよ」と言われているのです。ですから、「主の弟子」とは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられたキリスト者は誰でも、全員が主の弟子なのです。
 洗礼を受けた間もない者も弟子だし、いろいろな委員や奉仕者も弟子だし、長老・役員も弟子だし、神学校で学ぶ献身者も弟子だし、教職者たちも弟子なのです。また、信仰的にどのような成長段階にいても「イエスは主である」と告白する信徒は皆、主の弟子なのです。

 主の弟子訓練とは、信仰の基本的習慣を身に着けることです。
「訓練」という言葉を嫌われる方もおられます。しかしながら、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」とイエス様が要求される主の弟子の道は、すべてのキリスト者に適用される教訓です。ここでいう訓練とは、イエス様が命じておられたことを守って生活ができるように、信仰の基本的習慣を身に着けることであります。

 私は、主の弟子訓練の本質を次の3つに考えております。
1、主の御言葉に聞いてとどまること
 イエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ福音書8:31)と言われています。主の御言葉を聞いてとどまることは主の弟子の本質です。日々、絶えず御言葉を聞いてとどまるという信仰の生活の基本的習慣を身に着けることです。大宮教会では、ディボーションの生活と言います。

2、互いに愛し合うこと
 イエス様は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ福音書13:34〜35)と言われています。主がわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うことは、主の弟子の本質です。互いに愛し合うことを身に着け、愛を深め合って成長し、隣人を自分のように愛し、主の愛と恵みを証しするのです。

3、主に似た者として成長すること
 パウロは「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ8:29)と言っています。また「わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Uコリント3:18)とも言っています。主に似た者として成長することは主の弟子の本質です。主の弟子とされた私たちは、聖霊の力と助けをいただいて、主に似た者として成長し、自分の体で神の栄光を現す者(Tコリント6:20)とされるのです。

 長年、主の弟子訓練に携わっていて、主の弟子訓練のもう一つの本質に気づかされました。どんなに神様を悲しませるような不信仰や失敗の状況に置かれても、イエス様が待っておられることに気づき、「主のもとに立ち帰ることができること」です。
 私たちは、主の弟子になるために、主の弟子としての完全を求めがちであります。しかし、イエス様が徹夜して祈って選ばれた12弟子たちは完全でしたでしょうか。ユダは裏切り、ペトロは3回も主を否み、他の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。しかし、イエス様はそのような弟子たちを見捨てず、ガリラヤに行くようにお命じになりました。自死したユダを除いて、情けない11人の弟子たちは復活されたイエス様とお会いし、「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と世界大宣教の使命を託されたのです。主のもとに立ち帰った者たちが主の弟子となったのです。

 復活のイエス様が弟子たち指示しておられたガリラヤの山は、今日、それは復活の主がご臨在くださる主の日の礼拝であります。主の弟子は、どんなに神様に背くことがあり、神様を悲しめたとしても、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言って待ってくださっています。その復活の主イエス様のもとに立ち帰ることができるのです。それが毎週の主日礼拝なのです。

 主日の礼拝を中心に、御言葉に聞いてとどまり、互いに愛し合い、聖霊の神様に導かれて主に似た者として変えられ、喜びと感謝のあふれる信徒たちの群れが育つことこそが健康な教会であり、イエス様の教会なのです。
大宮教会 疋田國磨呂牧師
(ひきた くにまろ)




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