2016年8月のみことば |
主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。 主はアブラムに現れて、言われた。 「あなたの子孫にこの土地を与える。」 アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。 (創世記12章1〜9節) |
この夏の大きな話題といえば、リオ・オリンピックでしょうか。既に、テレビに釘づけになっておられる方もいるかも知れません。応援する人たちにとって、メダルの色や勝ち負けはとても大きなことでしょう。しかし勝敗の結果だけでなく、スポーツにはドラマがあり、多くの感動を与えてくれます。選手一人ひとりが、オリンピックに出場するまでの歩みは、人知れず重ねられた努力の連続だったと思うのです。 私たちの生活においても、神様に祈り、涙ながらに御心と助けとを求める時があります。それは、神様と私だけが知ることです。まさに、“人知れず”祈り求めて、神様が私に語りかけ、慰め、御心を顕してくださるという深い信仰の体験です。けれども、神様の御心やお恵みに気づかないことも、私たちには時々あります。そのお恵みの大きさと、御導きの確かさを知るのは、その時からしばらく過ぎた頃かも知れません。 この度開きました創世記12章は、アブラハムの物語の始まりです。アブラハムは、旧約聖書における忠実な信仰者の一人です。そして神様に祝福され、大きく用いられた人物でもあります。そもそも「アブラハム」という名前は、「諸国民の父」という意味で、その名前の通りに、イスラエルで彼は信仰の父として尊敬されています。旧約聖書にはところどころに、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と記されているように、アブラハムはイスラエルの人々にとって、創造の神様によって選ばれたイスラエル民族の初穂でありました。本来アブラハムは“アブラム「父は偉い」”という名でしたが、神様ご自身が彼に“アブラハム”と名前をつけられました。神様から直々に名前を賜るとは、それだけでも特別な存在であると言えます。 さて、このアブラハム物語は、「わたしが示す地に行きなさい」との神様のみことばから始まります。 先ず、創世記12章のみことばをもう少し見て参りましょう。ここでは、アブラハムはまだアブラムでありました。1節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい』」と、神様はアブラムに語られました。この神様の語りかけには、行き先がありません。どこに行きなさい、という目的地がないのです。私たちの側からすると、これは困ったことです。 もしも、私たちが乗ろうとする電車が「行き先知れず」だったら、私たちはその電車に乗るでしょうか。どこに行くかもわからない電車では、乗るに乗れません。わたしならば、乗らないでしょう。あるいは、勤めている会社で、急な異動を命じられることを考えてみましょう。「どこへ行くかは会社次第。とにかく荷物をまとめて、迎えのトラックに乗ってください」などという話では、快諾とはいきません。まして、家族を一緒に連れて行くならば、なおさらです。 しかし神様は、「わたしが示す地に行きなさい」としかアブラムに告げられませんでした。アブラムも、「神様、どこへ行けばいいのですか」とは尋ねていません。けれども、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った(4節)」のです。アブラムが神様の言葉に従って、住み慣れた地を離れ、荷物をまとめ、家族を連れて旅立ったということが、どれほど先の見えないことだったのかはわかります。私たちの感覚からすれば、アブラムの取った行動が無鉄砲で、無計画にさえ思えます。 なぜアブラムは、先の見えない神様の言葉に、何の問いかけもせずに従ったのでしょうか。2節「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」と、神様はアブラムに続けて語られました。神様のこの言葉に、アブラムは、これから先に神様の祝福があることを知るのです。そして彼は、神様の言葉を信じました。神様の助けがあることを知り、神様の導きの御手に、これからの歩みを委ねたのです。しかも、「大いなる国民にし」、「あなたの名を高める祝福の源となるように」との言葉は、アブラムに与えられた神様からの約束です。神様がお与えくださる約束を前に、人が出来ることは、“信じるか”、“信じないか”です。信じて一歩を踏み出すか。それとも、信じずにそこにとどまるか、の2つに1つです。 神様は、何の保証も無いのに約束なさるお方ではありません。神様がお与えくださる約束は、約束をなさる時には既に、神様の業は始まっています。約束の成就は、既に準備されています。準備万端ととのったところへ、神様は私たちの前に導きの御手を伸べてくださいます。私たちが神様の約束を信じて、一歩を踏み出したならば、神様は私たちの手を、足を、体全体をつかんでくださって、約束の実現へと私たちを持ち運んでくださいます。 幼い子どもが、お母さんの胸に飛び込む場面を見ることがあります。お母さんは両手を広げ、我が子の名前を呼びます。その子がお母さんめがけて駆けて来るのを受け止め、抱きしめようとします。幼い子どもは、「お母さんは自分を受け止めてくれるだろうか」と意識することなく、お母さんの胸に向かって走り寄ります。お母さんは、子どもがどのようなスピードでも、どんな走り方をしても、我が子を両手で受け止め、抱きしめます。 神様と私たちも、これに似ています。神様が両手を広げて、向かってくる私たちを受け止め、抱きしめてくださる。私たちは意気揚々と走ったり、不安でおどおどと歩いたり、半信半疑な曖昧な足取りだったりするかもしれません。けれども、どんな走り方でも、どんな歩き方であっても、一歩神様に足を踏み出した者を、神様は御自ら捕えてくださいます。抱きしめて、支えてくださいます。 私たちも、両手いっぱいに私たちを迎えようと待っておられる神様に向かって、神様を信じて、一歩を踏み出しましょう。神様は、しっかりと私たちをつかみ、抱きしめてくださいます。 さて、アブラムは神様を信じて旅を始め、ようやくカナンの地(現在のイスラエル)に入り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来ました。しかし、既にそこにはカナン人が住み着いていました。「神様、おかしいではないですか!信じて従って来たのに、人が住んでいます。話が違いますよ!」と、文句の一つでも言いたいことでしょう。けれども、アブラムはそんなつぶやきなどしませんでした。神様はアブラムに現れてくださり、「あなたの子孫にこの土地を与える。(7節)」と言われました。神様は、約束に継いで、更なる約束をお与えくださったのです。この約束によって、アブラムのそれまでの旅の疲れが、一気に吹き飛ぶような喜びであったろうと思うのです。アブラムは、現れてくださった神様のために、そこに祭壇を築きました。その後は東に移り、西にベテル、東にアイを望む所でもまた、祭壇を築き、神様の御名を呼びました。恐らく、素晴らしく見晴らしの良い場所であったのでしょう。そこでアブラムがしたことは、祭壇を築き、御名を呼ぶことでした。それから更に旅を続け、ネグブ地方へと移りました。 アブラムは、その心が神様と共にあろうと、神様を思い、神様を見上げていたことでしょう。そして、折り折りに、神様の御名を呼ぶ、すなわち礼拝をささげたのです。アブラムの心が神様と共にあり、その心は常に神様を見上げていたので、神様の栄光がいつもアブラムの前にありました。そして彼の心には、平安と神様への信頼がありました。だから、御名を賛美せずにはいられなかったのでしょう。神様を礼拝し、神様をほめたたえずにはいられなかったのだと思います。けれども、アブラムの心以上に、神様がアブラムと共におられたのです。旅立つ時にも、旅路を歩いている時も、カナンの地に入った時も、常に神様はアブラムと共におられました。 『主が共におられる。』それは新約聖書において、インマヌエルの主、神の子イエス様を表す言葉です。イエス様は十字架にかかられる時も、そして十字架の上で死なれる時も、その御心は全ての人々に注がれています。復活され、死に勝利された時も、その御心は全ての人々に注がれています。今もなお、イエス様の御心は私たちひとり一人に注がれ、私たちと共にイエス様はおられるのです。ですから私たちは、イエス様と片時も離れることがなく、イエス様が共に歩んでくださいます。そして、今日も御手の中に、私たちは生かされているのです。私たちも、心からイエス様を賛美しましょう。日々イエス様に導かれ、支えられ、助けられていることを心から感謝し、イエス様をほめたたえましょう。 主の約束が私たちの前にある。主の約束は、必ずやなされる。それが、神様の約束への信頼です。主が共におられるお恵みが、私たちを取り囲んでいる。それが、私たちに揺るぎない平安を与えてくれます。アブラムが、行き先を知らずして旅立ったことは、それまでの人生から新しい人生への旅立ちでもありました。そこには、神様への信頼、確信、そして祈りがあったことでしょう。私たちも、神様に導かれて、「神様の示される御心」へと歩み出しましょう。そこには既に、約束の成就が備えられています。 |
初雁教会 町田さとみ牧師 (まちだ さとみ) |
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