2016年9月のみことば

向こう岸に渡ろう

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
               (マルコによる福音書4章35〜41節)

 主イエスは、時々、私たちに「向こう岸に渡ろう」と言われます。これに対して自分の気持ちは、そうしたくないと思ったりします。また、周りの人たちも、自分と同じ意見であったりすると、なお、そのように思います。その方が安全であったり、楽なので、主に従うことを拒んでしまうのです。
 しかし、逆に、「向こう岸に渡ろう」との主イエスのご命令に従ったために、荒れ狂う波に飲み込まれそうになったり、苦しむことを体験しなければならないこともあることは事実であります。こういう時こそ、自分の信仰が試される時であり、さらには、信仰が増し加えられ、強められる時であることを覚えたいのであります。
 今回、与えられました聖書の個所は、同じ出来事がマタイによる福音書とルカによる福音書にも記されており、大事な個所です。
 さて、聖書の内容を見ると、主イエスがガリラヤ湖の湖畔で神の国のことについて、宣べ伝えて(4章26節から)おられるうちに日が暮れてしまいました。それは群衆を相手に、時のたつのも忘れる程に夕方まで語り続けられたのです。群衆も聞き入っていたのでありましょう。
 やがて、主イエスの説教も終わり、主は、弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と言われました。そこで、弟子たちは、群衆を後に残して、主イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出したのです。

 
向こう岸へ
 「向こう岸」とは、ガリラヤ湖の東岸を指します。なぜそのように言ったのでしょうか。それは、今、目の前にいる、群衆の中に上陸することは困難であったと考えられますし、また、向こう岸は、次の章に出てきます、異邦人の土地ゲラサであります。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」(5章1節)(ちなみに、ユダヤ人以外の人をそう呼びました。私たちも異邦人であります。)
 今や、主イエスは、福音を、もっと広く宣べ伝えようとしておられたのです。この付近だけでなく、反対側まで、こういうことを考えた時に、私たちは、せいぜい自分たちのいる近辺しか、頭にのぼりませんけれど、考えさせられます。実際に「向こう岸」まで宣教活動を広げている教会もあります。外国に宣教師を派遣したりしております。私たちも、ゆくゆくは、もっと広い範囲に、「向こう岸」も、私たちに与えられている領域であることを覚え、祈り、宣教活動に励んでまいりましょう。
 また、もっと身近な視点で、このことを考えてみたいのですが、私たち一人ひとりにとっての「向こう岸」とは一体、どこなのでしょうか。もしかしたら、それぞれが遣わされている会社や学校であるかも知れません。また、ある人にとっては、病気を乗り越えることであるかも知れません。また、ある人にとっては、人間関係の問題、経済問題等々、いろいろと考えられます。
 以上、今上げた「向こう岸」に渡るためには、一体、どうしたら良いのか、そのためには、こぎ出して出かけなければならないということであります。

 
不安との戦い
 聖書の中に海(湖)という言葉は良く出てきますが、それは不安を表すことが多いのです。私たちの信仰生活も、この戦いなくしては、向こう岸に行けないことが多くあります。
 「そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(4章36節)ここで見るように、主イエスのそばには、3通りの人がいたことがわかります。群衆はこちらの岸にとり残されたのですが、しかし、主イエスと一緒に行きたい人たちは、別の舟を準備して後を追いました。皆さんなら、どちらの側についたでしょうか。岸に残った人か、それとも、舟に乗って後を追った人か、それとも舟の中に、主イエスと共にいた人か。誰が考えても、主イエスと共に舟に乗った人が、一番幸せに思いますが、ところが大変なことが起こります。
 主イエスと一緒にいても、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになってしまいました。弟子たちは右往左往し、恐怖に脅えています。私たち、信仰者の生活も、良いことばかりではありません。この世にあって、激しい突風に遭い、まるで、讃美歌273番にあるように、「波はさかまき、風ふきあれて、沈むばかりの、この身を守り」です。ここで私たちは、気付かなければならないのは、どんなに舟が、海の中に飲み込まれそうになろうとも、この舟の中におられて、私たちの身を守ってくださるお方が、乗ってくださっておられることを忘れてはならないのです。
 確かに、弟子たちは、主イエスが舟の中に乗っておられたのは百も承知であるのですが、彼らは全く主を信頼しておりませんでした。なぜならこんな大変な状況の最中に、「艫の方で枕をして眠っておられた」(4章38節)主イエスの様子を見て、弟子たちがとっさに口にした言葉、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ってしまった態度でわかるのです。彼らにしてみれば、主イエスの「向こう岸に渡ろう」とのお言葉に従って行ったはずなのに、大変な目に遭ってしまったのです。責任は主イエスにあると言わんばかりに、「おぼれてもかまわないのですか」と少々、怒り気味に言ってしまったのであります。彼らはプロの漁師であり、海のことを知っているだけに、この場に及んでは、自分たちの経験も技術も何の力にもならなかったことが、この言葉に表れています。

 
なぜ怖がるのか、まだ信じないのか
 たとえ、どんなことが起きようとも、この舟の中に主イエスが一緒に乗っていてくださるということに信頼をおくことが信仰であります。主イエスが眠っておられようが、たとえ、すぐに答えをくださらなくても、主が、ここにいましたもうということを、信じることが信仰であります。私たちの不安がどこから来るかと言いますと、主イエスを見失うところから来ます。
 よく教会を舟にたとえます。荒波にもまれて、今にも沈没しそうな教会もあります。しかし主イエスが、その舟で、悠々と眠っておられます。どんなに大きな問題を持っていても、主イエスが舟の中に一緒に乗っておられるならば、嵐を乗り切ることができるのであります。それは解決してくださるお方は、主イエスだからです。
 さて、もう一つ大事な点は、「向こう岸に渡ろう」と言われたお方は、とりもなおさず、主イエスでありますから、絶対に向こう岸に渡れるのです。風が吹こうとも、何が起ころうとも、主イエスの言われた言葉はそのまま成就するのであります。なぜならば、主イエスが、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ。」と言われると、風はやみ、すっかり凪になるからです。
 主イエスは、自然界をも支配しておられる神の子であられます。
 ここで、弟子たちは、“あせる”気持ちを放棄して、静かにし、全き主に信頼し委ねる時、主の御言葉が働かれることを教えられています。
 旧約の預言者イザヤも次のように語っています。
 「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。
  安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ書30章15節)
 今、私たちは、どれだけ神に信頼しているでしょうか。あの弟子が主イエスに言われたように、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と、主イエスは私たちにも言っているように思えてならないのです。
 今、私たちは、主イエスが、「向こう岸に渡ろう」と言ってくださっているお言葉を信じて、この間、大波があろうとも恐れず、主のお言葉は必ず成就するという信仰を持って歩み続けてまいりましょう。そして教会という舟に、主イエスが乗ってくださっておられることを信じつつ、これから先も、主イエスが乗ってくださっているわけですから、安心して、向こう岸に渡って行きましょう。また、私たち、キリスト者は、御国の世継ぎとして保証されている最終的な「向こう岸」である天国行きの切符を与えられていることを感謝しつつ励んでまいりましょう。(Tペトロの手紙1章4節〜5節)
大宮教会 疋田勝子牧師
(ひきた かつこ)




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