2016年10月のみことば

地の塩、世の光としての生き方

  「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
               (マタイによる福音書5章13節〜16節)

 イエスさまの人柄・生き方は、どういうものであったでしょうか。それは、人を愛し、敵さえも愛そうとする生き方です。そのような生き方が、多くの人々を深く感動にいたらせたのではないでしょうか。そのイエスさまの生き方に倣って生きているのがキリスト者です。キリスト者同士が互いに深く愛し合い、助け合って生きている姿、その姿に多くのキリスト者でない人々がどれほど感動することでしょうか。また、キリスト者がかもしだす平和の雰囲気(キリストの香り)にも多くの人々は、感銘を受けています。どうしてキリスト者は、そのような香りを漂わせることができるのでしょうか。それは、キリスト者は自分自身をゆだねられるお方復活の主イエスさま、神さまを持っているからです。

 人がイエスさまを信じるのは、イエスさまが「救い」そのものであるからです。イエス・キリストの中に「救い」のすべてがあります。病気・失業・生活苦・貧困・人間関係のトラブル・失敗や挫折・失望・そして死さえも、乗り越えさせ救いを与えてくださるお方がイエスさまです。

 復活され天に昇られたイエスさまは、今は聖霊となられてこの世に生き働かれておられるのです。反対に、出口なし、行き詰まりであると思い込ませ、失望・絶望にさせて、自分を否定的生き方へと追い込ませていく力は、サタンから来る悪霊の働きです。その誘惑にのらないようにいたしましょう。このサタンの働きを乗り越える生き方について、聖書に聞いてまいりましょう!イエスさまについて語ることは、逆説的(パラドクス)に言いますと、サタンに象徴される闇の働きを語るということでもあるのです。なぜなら、イエスさまは「救い」「光」であって、サタンの力・悪霊―即ち「苦しみ」「闇」から人々を解放してくださるお方だからです。「苦しみ」があるから「救い」が必要とされ、「闇」があるから「光」がもたらされるのです。

 ユダヤ教のラビ・クシュナーは、「失意を克服する生き方―モーセに学ぶ」(創元社)という本の中で失意を克服する生き方を紹介しています。「『神のみ心』『人が生きている意味』それは、『人が失意・挫折の状態のままでいるところ』や『苦しみの状態のままに置かれているところ』にはありません。夢や理想が挫折しても、人には人生を歩み続ける力と回復力があるのです。」と。

 また、「人生の失敗と向き合い、これを受け入れるところから癒しが始まる、と強く願いながら達成できなかったことによって、人は、絶え間ない挫折を抱く自分に、させてしまいます。壊された夢の断片は、彼にとって経験を肥やしに前進させる踏み石にさせるのではなく、自分を砕く石うすにしてしまいます。・・あらゆる失意と拒絶、実現できない夢のすべては魂の傷として残ります。離婚、死別、失業といった大きな挫折は、耐えることのできない心の傷を残します。問題は、どのようにしたら敗北や拒絶にも遭わずに人生を切り抜けることができるだろうか、ではありません。人はそのような事態に遭わずにすむはずはなく、高い望みを抱いて人生に強く期待すればするほど、途上にある傷はますます蓄積していきます。

 真の問題はそのような失意にどのように向き合うかです。自分は失敗者であると思い込み、夢のすべてがたった一つの人生の展開によって粉々にされたかのように決め込む多くの人々を私は見てきました。私はひどい失望を味わったのちに夢を持てなくなった多くの人がいることを知っています。私は夢が挫折したときに子供に夢や高い望みを抱くことを思いとどまらせる、非常に多くの親たちがいることを知っています。しかし、私は親が子供たちにあえて夢を抱かせる方がより好ましい教育であり、夢が挫折しても人生を歩み続ける力と回復力が彼らにあることを保証できると確信しています。」こうしたクシュナーの考え方は、なんと素晴らしい考え方であることでしょうか!

 前向きに生きる生き方が、失意を乗り越えさせる力となるのです。わたしたちは、リオ・オリンピックから沢山の感動と勇気をもらいました。リオ・オリンピックでは、日本人選手が多くのメダルを取りました。その陰には、挫折を乗り越え、コーチや監督そして家族の支えによってメダルを取ることができ、そうした方々への感謝の弁を語る選手が多くみられました。水泳の200メートル平泳ぎで金メダルを取った金藤理恵選手もその一人です。4年前のロンドン・オリンピックの時には、代表選手から漏れ、その挫折から水泳を辞めようと思ったそうです。しかし水泳を辞めることを思いとどまらせて二人三脚で指導されたのが加藤健志コーチだったのです。また、リオ・オリンピック開会式直後にいきなり水泳200メートルメドレーで金メダルを取ったのが萩野公介選手も同様でした。彼も1年前に自転車で転び腕を骨折し、選手生命は終わったと絶望の淵を見た一人です。

 そのようなどん底で監督から「お前は、一人でメダルを取ろうと思っているのか」と言われ、初めて独りよがりの自分が砕かれ、生まれ変わることができたそうです。そして彼は、自分を生きかえらせてくれた監督の首にメダル授与式の直後、ただちにかけたのです。神さまは、挫折しても生きようと望む者には、必ず立ち上がるチャンスを与えて下さるのです。二人のオリンピック選手のようにしかるべき支え手を遣わし、助けの手を差し伸べて下さるのです。

 イエスさまが言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書7章7節)。人生を否定的にさせる誘惑、サタンの誘惑に乗らないためには、絶えず前向きにのみ生きる生き方を身に着けることが重要です。イエスさまが語られた山上の説教の中に「平和を造りだす人は、幸いです。」という箇所があります。イギリスの神学者ウイリアム・バークレーは、この箇所を静的ではなく、動的・前向きにとらえました。平和とは、争いのないということではなく。ヘブライ語の平和とは、人間の最高の幸福を造りだすすべてのものを意味していた。

 聖書では、平和とは、すべての心配事がなくなることではなく、すべての幸福を楽しむことにある。また、祝福されている人は、平和を造りだす人であって、必ずしも平和を愛する人ではない。聖書が祝福する平和とは、問題を回避することではなく、問題に直面し、それと取組み、それを克服することによって生まれる。」(W・バークレー、注解書集・マタイ福音書)。その通りで、クシュナーも同じことを言っています。「神は、決して挑戦しないやさしい世界、つまり決して私たちを強くしない世界を与える代わりに、神は、悲しむことが避けられない世界を私たちに与えました。それゆえに私たちの魂に立ち直る力を埋め込むことによって、埋め合わせをされたのかもしれません。」人生とは、何も問題がなく平穏無事に生きるということではなく、沢山の挑戦・苦しみ・挫折・失意がありながらも、にもかかわらず、生き抜いていくということ、生き抜いていけるということです。

 人生は、立ち直ることができるのです。イエスさまが十字架上で死に、復活され、神の救いのみ業を成就されたように、人生は、敗者復活が赦されているのです。イエスさまを信じる信仰を持って生きるということは、成功したか、勝ち組になったかということが人生の基準ではなく、成功したら自分が周りの方々の協力によって成功の恵みをいただけたのだと思い、生かされていることを感謝する、これが信じる者の対応方法だと思います。同時に、失敗したとしても負け組(負け犬)だと思わず、まだ成功していない・成功の途上にあり工夫する必要があるのだと、そのように前向きにとらえて神さまの導きを信じる、これが神さまを信じる者の人生の対応の仕方です。こうした生き方、人生の出来事に対する対応の仕方は、キリスト教徒だけではなく、すべての人にとっての普遍的な対応方法に他ならないと思います。
深谷教会 法亢聖親牧師
(ほうが まさみ)




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