2016年12月のみことば |
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 (箴言1章7節) |
一昔前であれば、高度な専門知識を要求される職業とは、医者や弁護士と決まっていた。でも今は違う。21世紀、変化が激しく、物事は益々複雑になっていく。だから医者・弁護士に限らず、あらゆる職業で、絶えず新しいことを学び専門知識を磨く必要が生じている。更に顧客の要望に答えるだけでは、流行らない。顧客にとって一番良いモノは何か、先回りして考え、顧客に提案し続ける力が重宝される。職業人の、総コンサルタント化である。 そうでなくとも、業界を跨(また)ぐ若者の転職は普通のことだ。また街のレコード屋さん・駄菓子屋さん・おもちゃ屋さんのように、その業種自体が消滅の危機にあり、業界を挙げて新たな仕事を探さねばならぬケースが増えつつある。皆、新たな職場で一から学ばねばならない。21世紀が知識社会と云われる所以(ゆえん)である。 知識を軸とする現代人の生き方を思うとき、旧約聖書・箴言ほど役に立つ書物はない、と確信している。 箴言の中心聖句、1章7節には「主を畏れることは知恵の初め、無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と書かれている。ここでの「知恵」は元のヘブル語が“知識”であり、意図的な誤訳であろうから、正確には「主を畏れることは知識の初め」となる。つまり主を畏れる人は、「知識」「知恵」「諭し」を用いてキリストの体・教会を建て上げ、永遠の御国では莫大な報いを受け取ることになるが、主を畏れない無知な者は、その何れをも侮って破局を迎える、という意味である。 「畏れる」とは、長嶋茂雄監督と松井秀喜選手の関係のようだ。長嶋監督は松井選手を自宅に招いて特訓し、愛情を注いだ。松井選手は長嶋監督の指導に“喜んで従った”。主なる神の愛情・指導に喜んで従うのが「主を畏れる」である。 「主を畏れる」ことは「知識」と「知恵」の出発点だ。聖書が教える「知識」とは“神様が造られた世界についての分析結果”、「知恵」とは“神様の目から物事を判断する能力・分別力”である。信仰者はそれらを十二分に活用し、自らの死までという限られた時間内に、主なる神から与えられた人生の目的を全うする。ところが現代は刺激に富み情報にも満ち溢れ、何がホントで何がウソかを見分けることが難しい。だから特に「知恵」が鍵である。 埼玉地区の皆さまに於かれては是非、それぞれの教会の受験生のために祈って欲しい、と私は願っている。彼らはこの冬が正念場となる。単に合格すれば良い訳ではない。受験を機に、成人した後、日々の学びに必要となる基礎知識を身に付けて欲しい、のだ。 主を畏れる受験生には、基礎知識を正しく応用する力・「知恵」が与えられる。この世の知恵は知識を自分の利益のために用いるのに対し、神の「知恵」は知識を周りの人を助けるために用いようとする。主を畏れる学生にこそ、受験で神様の恵みを味わって欲しい。 私自身、子供の頃から文字を読むのも宿題も大嫌いで、漢字の読み書き・計算・読書感想文では、先生に叱られ、さんざんな思いをしてきた。しかし、小学5年生で初めて教会に通い、救い主キリストに出会った。聖書という分厚い本を手にとって学ぶようになった。中学生になってからは高校生の先輩から刺激を受けた。“一日3時間勉強すれば、どんな大学でも合格する”との大胆な発想になかば騙され、一念発起、勉強を始めた。机に向かう習慣のなかった私にとっては、ヘドを吐くような毎日だった。上京して予備校に通った際には、2人の牧師の祈りを得ることで、やっと大学受験を乗り越えることができた。こうして高卒で就職してもおかしくなかった私に、転機が訪れた。高等教育から得た「知識」と神学教育から得た「知恵」に支えられ、今、教会を建て上げる仕事が豊かになっている。 私にとって教会とは信仰や愛だけでなく、知恵も知識も豊かになる人間開発の場だ。皆さまの祈りによって、若者は大きく成長し、やがて教会も社会までもが豊かになるであろう。 |
草加教会 高田輝樹牧師 (たかだ てるき) |
今月のみことば | H O M E |