2017年2月のみことば

主イエスは、民の嘆きを聞いておられる

 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。
               (ルカによる福音書8章19節〜25節)

  本日は、「永眠者記念礼拝」を皆様と共に捧げています。日本基督教団では、11月の第1主日を「聖徒の日」と定め、かつて教会にて信仰生活を捧げてきた方々を覚えて「永眠者記念礼拝」を捧げています。

 本日は、ルカによる福音書8章19節−25節よりみ言葉を聞きます。本日の箇所には、二つの事が書かれています。19節から21節は主イエスの所に主イエスの母と兄弟たちが来た知らせを主イエスが聞くと、主イエスは、話を聞いている人々に向かって「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちの事である」と答えられた。これが、一つの事です。もう一つは、22節から25節の箇所です。ある日に主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の向こう岸に行くために船に乗りました。すると突風が湖に吹き降ろしてきて危なくなり、弟子たちは、主イエスに「先生、先生、おぼれそうです」と、叫びました。この言葉を聞いた主イエスは風と荒波をお叱りになられ「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言いました。これが、もう一つの事です。 

 この二つの事は、別の事の様に見えます。主イエスの母と兄弟達が主イエスを尋ねてきました。それに対して、22節以下は湖での出来事です。場面も出てくる人たち、また書かれている内容も違います。けれども、本日の箇所をよく見ますと、共通する事があります。それは、21節です。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」というみ言葉です。

 本日は、21節のみ言葉の意味を考えながらみ言葉を聞いてまいりましょう。
 主イエスと弟子たちは、ある場所に行くために、船に乗られました。26節に「一行は、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」と書かれていますから、湖を舟で渡ってゲラサ地方に主イエスと弟子たちが行く事が目的だった事が分かります。 

 聖書には、主イエスがされたみ業が書かれています。それも主イエスがどのようにして弟子たちや人々と関わったのか。四つの福音書にそれぞれ書かれています。また福音書を書いた人によって少し内容が違います。主イエスに会うために主イエスの母と兄弟達がやってきた。主イエスが、各地にて福音を語り、様々なみ業をされていた。主イエスのみ業について主イエスの家族が人々に何かしら言われたのは事実でしょう。自分の息子が各地にて何かをしている。ある人たちにとっては、とても喜ばしき事であった。またある人たちにとっては、憎まれる事をしていた。神様を冒涜している。という言葉も聞いたのでしょう。母と弟達は、主イエスと直接あって話をして、場合によっては、主イエスを自分の家に連れて行くことまで考えていたのかもしれません。けれども、私たちキリスト者にとって聖書は、み言葉です。一見何でもないように見える。また、物語が次々に書かれている。流れるように書かれています。けれども、その物語、一つ、一つに大きな意味がある。特に主イエスが語られた言葉には大きな意味がある。本日の聖書の箇所を見まして改めて思わされます。

 さて22節以下にめを向けましょう。22節。「ある日の事、イエスが弟子たちと一緒に船に乗り「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。と書かれています。主イエスが、向こう岸に行くために、舟に乗ることを決め、弟子たちも主イエスの言葉に従い、舟に乗ったことが書かれています。弟子たちの中には、かつて漁師だった人たちがいました。ですから、彼らには、今舟に乗って向こう岸に行くに際して、今日は、天候が荒れる気配がなかった。逆に、仮に天候が悪くなった場合でも、それなりの経験がある。悪くなったら悪くなったなりに判断すればよいと思っていたのでしょう。ガリラヤ湖では今でも激しい風が起こるそうです。そういう中で、主イエスと弟子たちは、舟をこぎはじめました。
 すると突風が吹き始め、舟に多くの水がかぶりました。

 ある説教者は本日の箇所にてマルティ牧師が語ったみ言葉を引用しながら語りました。引用します。「主イエスは、弟子たちが悲鳴を上げたからこそ、嵐の湖を鎮めてくださいました。そう読む事が出来ます。そうなると、この奇跡を呼び起こしたのは、弟子たちの信仰の叫びであったと読む事になりかねません。しかし、もちろんそうではなかった。マルティは言うのです。もし信仰があったのなら、弟子たちは主イエスを起こさなかったであろう。嵐は続いていたであろう。弟子たちは歯をくいしばって、力の限りこぎ続けたにちがいない。何も特別な奇跡は起こらない。弟子たちがしたのは、人間として、当然なすべき必死の努力だけであった。しかし、それこそ、主イエスが求めておられたこと、耐えること、そのものであったのではなかろうか。そこには一見したところでは、信仰を持っていないものも持っているものもしていることは同じである。しかし、大きな違いがある。それは、ひたすら舟をこぎながら私は一人ではないと知っていることである。マルティ牧師はそういっています。その人の心の最も深い所に静けさがある。この時、舟は進み続けるのです。主イエスは、そこに甘んじて眠っておられるのです。この主イエスが、我々の中で眠っておられるという姿こそが、弟子たちを、ますます安らかな思いでこぐ事に専念させたはずであった。しかし、そうはならなかった。弟子たちに信仰がなかったからである」。 

 私たちは、マルティ牧師が語った言葉を聞いてどう思うでしょうか。信仰があったって、嵐が来て、舟に水がかぶれば、当然助けを求める。当然ではないか。そう思われるお方がいても私は否定しません。しかし、同時に、私たちはキリスト者ですから、マルティ牧師の言う通りだ。弟子たちが、主イエスを信じていれば、嵐が来て、水をかぶっても、そこで耐えて舟をこぎ続ける事はできたであろう。主イエスが、共にいてくださったのだからと思うのも信仰者であればこそです。けれども、私は思います。私たちはいついかなる時においても、ひたすら主を信頼して歩み続けることができるのでしょうか。信仰が与えられたのだから、もう大丈夫。聖書の言葉を聞いて従っているのだから、大丈夫だと言い切ることは出来ません。弟子たちも恐ろしかったのです。どうする事もできなくて、主イエスを起こしたのです。「あなたなら、この突風を鎮めてくださる。」とっさに、弟子たちは、嵐の中、主イエスを頼ったのです。

 25節で主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語られました。「あなたがたの信仰」。信仰とは何でしょうか。信じるということです。この時、突風が湖に吹き降ろされました。主イエスの弟子たちの中でかつて漁師だった人たちがいました。ペトロやアンデレです。漁師ですから、かつて漁の途中で、突風にあった経験があるでしょう。その漁師ですら、この突風は恐ろしいと思ったのでしょう。それだけ舟は危機的状況だったということです。しかし、主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語られました。信仰とは、神を信じることです。ここで言われていることは、突風が吹いているにもかかわらず、なぜ、主イエスが寝ておられたかということです。主イエスは、渡っていくうちに眠ってしまわれました。なぜ、主イエスは寝られたのか。主イエスは、父なる神様を信頼しておられたから、この時、寝ておられました。たとえ突風が吹いて、舟が危なくなっていたとしても、神様は、ちゃんと主イエスと弟子たちの歩みを守っていてくださる。主イエスは、すべてを神様に委ねていました。だから、弟子たちが主イエスを起こすまで、寝ておられたのです。 

 「信仰」とは、神を信じることです。アブラハムが、父なる神様を信じて他の土地に向かって旅をしたように、イスラエルの民が、モーセの後に従い、エジプトを脱出したように、主の召し、主の言葉に従っていく。それが、信仰です。主が必ず、我々を守り導いてくださる。これを信じるのが信仰です。「あなたがたの信仰がどこにあるのか」。私たちの信仰は、私たちの心にあります。また霊肉共に主を信じていると言って良いでしょう。けれども、主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と語られました。弟子たちは、この時、自分の命が危ない。これでは駄目だ。そう思っていました。つまり、己の命の危険。そしてこの危険は回避することができない。そこに彼らの思いがありました。

 私たちは、弟子たちを責めることは出来ません。私たちもまた、自分達の信仰はどこにあるのかと思う事があります。礼拝を大事にしながら、実は自分達で、優先順位をつけている。これが、私たちの現実です。神を礼拝しながら、日々の歩みは神を脇に置いている。また、何かの試練や忍耐を強いられた時、神様に嘆きます。それが、私たちの存在です。私たち自身と言ってもよい。実に罪深い者です。 
 けれども、主イエスが弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という言葉が実は、「あなたがたの信仰は何を信じて歩んでいるのか。」そう聞こえてくるみ言葉であることにも気づかされます。 

 主イエスは、風と荒波をお叱りになり、波は静まりました。そして、弟子たちも風と荒波を叱り、波を鎮められたことに目がいきました。しかし、主イエスが言いたかったこと、また考えられていたことは、風と荒波を叱り、鎮めることだったのでしょうか。言い方を変えます。なぜ、主イエスは、風と荒波を叱られたのでしょうか。主イエスは舟にて寝ていました。そのままにしてもおそらく舟は沈まなかったのでしょう。その上で、主イエスは、風と荒波を静められました。「先生、先生、おぼれそうです」という弟子たちの言葉を主イエスが聞いたからです。つまり、主イエスは、弟子たちの言葉を受けて、風や荒波を静めてくださいました。弟子たちが、荒波に恐怖し、主に助けを求めた。その声を主イエスが受け止めてくださいました。主イエスとはそういうお方なのです。

 弟子たちだけではありません。私たちの礼拝で讃美する声。祈り、み言葉をすべて主は聞いていてくださいます。そして、日々の祈り、言葉もすべて聞いていてくださっている。主イエスは、この時、弟子たちの言葉を聞いて、風と荒波を静めてくださったのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。このみ言葉を聞いて、私たちは、どう答えるのでしょうか。「私たちの信仰は、あなたの言葉をに聞き従っていきます。」と答えることです。

 信仰とは、アブラハムが主の言葉に従って示された地に向かって歩んでいきました。私たちも同じです。主が語られるみ言葉に聞き従って歩むという事です。事実、弟子たちがそうでした。この時、弟子たちは、恐れ、驚いて、「いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか。」と互いに言いました。つまり、弟子たちは、主イエスが言葉を発せれば、風や波が従うとしか思いませんでした。しかし、主イエスが多くのみ苦しみを受けられて、十字架にかかり、三日目によみがえられ、復活されたときに、その主イエスに出会って、弟子たちは、はじめてこのお方が、真の救い主であることが分かったのです。弟子たちは、聖霊を受けて、福音宣教をしていく中で、この方が、救い主であることを大胆に語りました。あの時、風や荒波を受けた時、なぜ、主イエスを起こしてしまったのか。反省したに違いない。と同時に、あの時、主に助けを求めた時、主は私たちに言葉をかけてくださった。今も、私たちの宣教の業を見守り、私たちの礼拝、祈り、喜び、嘆きを聞いてくださっておられる。その事も同時に喜びながら伝道したにちがいないのです。「この方はどなたなのだろう」弟子たちは、もはや言いませんでした。この方こそ、私たちのメシア、キリストである。そう信じ、主イエス・キリストを宣べ伝えました。

 私は、説教の冒頭でこの二つの事は、別のことの様に見えます。主イエスの母と兄弟達が主イエスを尋ねてきました。それに対して主イエスが人々に「私の母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人である」と主イエスが語られた。それに対して、22節以下は、湖での出来事です。場面も出てくる人たち、また書かれている内容も違う。けれども、本日の箇所をよく見ますと、共通することがあります。それは、21節です。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」というみ言葉です。本日は、21節のみ言葉の意味を考えながらみ言葉を聞いてまいりましょう。と言いました。

 「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人たちである」。母も兄弟もここでは同じでしょう。神様の民とされるキリストのみ体なる教会。それが、わたしの母、兄弟である。と主イエスは、語られました。そして、キリストのみ体なる教会の民は、キリストと共に舟に乗り、歩み続けるのです。神の言葉を聞き、歩み続けていく。8章4節以下に「種を蒔く人のたとえ」が書かれています。神様は、様々な地に福音の種を蒔かれました。私たちの教会がある埼玉県さいたま市の「鈴谷」の地にも、日本中、世界中に種を蒔かれました。と同時に、この喩えは、道端や、石地、茨は、私たちの思い、経験することでした。しかし、そのような私たちのために主は、み言葉を語り続けてくださいました。そして、私たちは日々、新たにされて、造りかえられ、よい土地へと変えられたことをみ言葉を通して聞いてきました。そしてよい土地とは「立派なよい心でみ言葉を聞き、よく守り、忍耐して、実を結ぶのである」ことも聞きました。立派なよい心でみ言葉を聞く。もうすでに福音によってみ言葉を聞くものとされている。「よく守り」とはその御言葉を聞いた上で、み言葉に生かされて歩む事、み言葉を離さず、み言葉を思い起こしながら歩む事。そして忍耐とは、み言葉によって生かされていく民を忍耐を持って待ち望むことです。み言葉を与えてくださる神様に信頼して、み言葉を聞き、そのみ言葉に生かされつつ、忍耐して神様に祈り歩み続ける者。その民こそ、キリストのみ体なる教会に連なる民です。「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行うものである」。ですから、私たちが教会へと導かれて、洗礼を受けた。また幼児洗礼を受けて信仰を告白した。その神の民が、み言葉に生かされて、歩む事がどんなに幸いなことなのかが、主イエスのみ言葉からも明らかです。なぜならば、説教を聞き、このこの言葉はみ言葉である。そう信じることがいかに幸いなのかを私たちは、もう既に福音によって知らされているからです。確かに、主を頼ることを知りながら、主に背を向けて歩んでいるのが、私たちの現状です。嵐が来れば、叫び、おびえ、これからどうしたらよいのか。その事ばかり思う私たち。しかし、主イエスが、教会という舟に共に乗っていてくださっておられるのです。

 私たちが、不安を抱え、嘆くその傍らで、主イエスが私たちの声を聞いていてくださっておられる。その事をみ言葉によって気づかされ、神に立ち帰らされる。私たちが、自分で立ち帰るのではありません。神の言葉が教会にて語られて神に立ち帰らせ、実は、私たちの中心に主イエスがおられた。その事実をみ言葉を通して、幾度となく知らされている。その主イエスが私たちに「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行うものたちである」と語られた。そのみ言葉に立ち帰ることができる。私たちは、もう既に神様によって、耕された心を持った民である。日々、み言葉によって新たにされている。主イエスがわたしたちに対して「あなた方の信仰はどこにあるのか」と仮に言われた時、「私たちの信仰は、主イエス・キリスト。あなたのみ言葉に聞き従っていくことです」と礼拝によって神に立ち帰り、答えるものとされている。教会という舟に主イエスがもうすでにおられるのです。その事を私たちは忘れてしまう。しかし、み言葉によって主イエスが共におられて、み言葉に生かされて歩む者とされていることに改めて気づかされるのです。

 最後に、ある説教者の言葉を語ります。「主イエスは、信仰なき叫びを受け入れ、応えておられるのです。ありがたいことです。信仰がなかったから叫んだのでしょう。けれども、信仰のなき者の祈りにも表れてくる人の嘆きに、悲しみに、訴えに、主イエスは耳を傾けてくださるのです。だから、私たちは祈ることができるのです。むしろ、この信仰なき者の祈りが主イエスに投げかけられ、主イエスが、それに耳を傾けてくださっているところで、それが信仰の祈りに変えられるのではないでしょうか」。
 主が共におられ、私たちを立ち帰らせてくださるから、私たちは、み言葉を聞いて、そのみ言葉に従って歩もうとされるのです。
埼大通り教会 川添義和牧師
(かわぞえ よしかず)




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