2017年5月のみことば |
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書3章16節) |
聖書に全く関係のない、無宗教、これがわたしの家でした。仏教やキリスト教にかかわりを持ちたくない父、母。当然私もそのとおりでした。戦時中から戦後の混乱期を生きた父、学歴もないので、田舎から上京、軍人を職業に選び、下からのたたき上げで生きた人でした。宗教というものにたよらず、学校教育によらず、自分でしっかりと人生を生きることだと、頑固な父です。そんな父も、晩年病床で妻のことば、祈りに促されて、人生の転換をしたのです。不思議な事でした。私は、その出来事より35年前に、父母の反対、誤解から時には殴られたこともありましたが、聖書の記す「神」に導かれていました。 何が、私を変えたのか。この聖書の言葉でした。「神」が、「その独り子(イエス・キリスト)をお与えになった」ことでした。その前を冷ややかに、通り過ぎていた私に、語りかけた言葉でした。聖書が明らかにする「神」は、厳しくまた暖かいお方です。 1. 「その独り子をお与えになった」とは、第1に、神が私たちを「愛」しておられることを明らかにされたことです。わたしたちを愛し、拒否していた私の、私たちのために、一人息子までをも、与えてくださったことでした。このお方は、何かしら超越して、無反応、無表情と思っていた「神」ではないことに驚きました。近くに立たれ、私たちに関心を持たれ、関わってくださるお方でした。受験に失敗し、人生の初めにもう挫折した思いのまま、上京します。大学生活、サークル活動、友人たちの交流に活路見出そうとしますが、また失敗したらという不安から抜けられません。どう生きるのがよいのかと、心は不安でした。自分を強くしようとした結果は、親友からも、思いどおりに行かないと顔色も人も変わりトゲトゲしくなると言われました。思いもかけない、神の「愛」で愛されていることを知り、心が満たされました。平静な心に変えられました。 2. 「その独り子をお与えになった」とは、第2に、神が私たちを「滅び」ることのないようにしてくださるためだったのです。結末が、「滅び」ることがないようにされたと言うのです。私は、正しく生きてきたとは言えないまでも、間違ったこと、悪事をやってはいないと考えました。しかし、わがまま、自己中心から、他人を傷つけ、いじめも何度もやった人間でした。後味の悪さを持つものです。隠れていた、隠していた物事が出てきました。そうしたことは、死により、すべてが消し去られて、忘れられて終わるのだろうか。聖書は、そうは、言っていないのです。自分の内側や人との関係だけの問題にとどまらず、神との関係が問われると言うのです。神から離れることが、「罪」であり「滅び」になると言います。しかし、神は、その責任を、私に、私たちに負わせられることをなさらず、独り子(イエス・キリスト)に負わせられました。私たちが、神の前に滅びることがないようにされるためでした。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(ヨハネ12:47) 3. 「その独り子をお与えになった」とは、第3に、「永遠の命」を、与えられたのです。 十字架の死に勝って、復活されたイエス・キリストのうちに「永遠の命」があります。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25) 神が私たちに与えようとされる賜物が「永遠の命」です。私も、友人も同じガンを言われました。私は、治療ができ、回復できました。友人は進行していて、手術も治療もできないと言われたのです。彼もキリスト者で、生物科学者です。しかし、それは彼には大きな衝撃でした。彼は、あらためて「永遠」「永遠の命」について考えたと言います。すべての人は、神を認めない人も教えられなくとも、生まれながらに、「神の永遠」、「永遠の力」に気づいていると、聖書のとおりだと語りました。「永遠の命」とは、単なる命の連続ではなく、全く別次元の命、神から与えられるもの、神と共に生きる命だと言うのです。彼は、その命により、励まされ、国際協力事業の使命を、積極的に生きています。どこで、生きるかということを超えて、どなたと共に生き、誰のために生きるかを知った、たくましく素晴らしい生き方をしています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」 第1に、神が私たちを「愛」しておられる 第2に、神が私たちを「滅び」ることのないようにしてくださる 第3に、神が私たちに「永遠の命」を与えられた 一粒の麦が豊かな実を結ぶためには、地に落ちて死ななければならない。それと同じように多くの人が「永遠の命」に至るためには一人の人が犠牲とならなければならない。 イエス・キリストが、私たちの罪の代価となって、十字架で死んで下さったことにより、私たちは、新しい命、永遠の命に生きられるようになったのです。神の愛が私たちに向けられています。中東で、砂漠によく出かけました。季節の変わり目に、何もない不毛の砂漠が一面、小さく、綺麗な花で満ちるのです。そんな砂漠のような私も、新しい命が芽生え、喜びが与えられました。神に愛されている恵みを感謝し、悔い改めたとき、神のもとに戻れたのです。 |
日野原記念上尾栄光教会 長橋和彦伝道師 (ながはし かずひこ) |
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