2017年8月のみことば |
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 皆さんのうちのある詩人たちも、 『我らは神の中に生き、動き、存在する』 『我らもその子孫である』と、 言っているとおりです。 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。 それで、パウロはその場を立ち去った。 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。 (使徒言行録17章22〜34節) |
本日与えられた聖書箇所は、パウロが第二回伝道旅行のときに、ギリシャのアテネを訪れたときのことが記されております。パウロはある広場において、アテネの人々に向かって語り出すわけでありますが、そのように演説したパウロの動機について、本日与えられた聖書箇所の前の16節以降に、そのことが記されております。 パウロはアテネである二人の人を待っておりました。その二人とは、シラスとテモテのことであります。パウロとシラスとテモテ、この三人はベレアという地において、福音宣教をしていた訳でありますが、ユダヤ人たちによる妨害があり、パウロはシラスとテモテを置いて、ベレアから南に約300キロあるアテネに南下してきたのであります。その距離とは東京から琵琶湖くらいになりますでしょうか。パウロはその二人を待つ間に、このアテネの町の到るところに偶像があるのを見つけ憤慨します。それは、人間が造り出した偽の神々があったからです。また、パウロはアテネの広場において様々な哲学者と出会い、彼らと討論します。このアテネは、ソクラテスやアリストテレスなどギリシャ哲学を生み出した地でありました。この地に生きる哲学者たちは、常に新しい思想や知識を探していた訳であります。それですから、パウロに出会った哲学者は、パウロが語ろうとしている新しい教えがどんなものであるかについて興味を持ち、それをアレオパゴスで皆に教えてくれないかと頼んだのであります。 パウロは集会場所の真ん中に立って、そこに集まっていたアテネの人々に向け演説をしたのであります。パウロは22、23節にありますように、次のように語ります。 「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。」 パウロはアテネの市内を散策したときに、様々な偶像を見つけます。古代ギリシャにおいて、神は何かと言いますとギリシア神話の神々のことを言います。最高神であるゼウス、そして、海の神ポセイドンや、知恵の神アテナなど、それらの12の神々がオリュンポス12神として崇められておりました。また、それ外の多数の神々もまた崇められ、神々の神殿や祭壇も沢山造られておりました。パウロは歩きながら、その一つ一つを憤りながら、見つめていたのでしょう。そして、パウロは「知られざる神」と刻まれているある祭壇を見つけます。日本においても八百万神と申しますように、アテネにおいても、限りない神が崇められておりました。しかし、アテネの人々は段々不安になってくるわけであります。これだけ多くの神々が崇めているが、しかし、それ以外にも真の神がおられるのではないか、そう疑問を持つようになるわけです。そのように疑問を持つとその問いには終わりがありません。なぜなら、もう一つ新たな神を造りだしても、また、さらに他の神がいるのではないかと考え、際限なく神を造っていかなくてはならないからです。彼らはそのようにいつも終わりの無い答えを求めて、不安になっていきます。そうして、彼らの一部がたどり着いた答えが「知られざれる神」でありました。とりあえず、今沢山の神々はいるが、それ以外のまだ知り得ていない神については、とりあえず、「知られざる神」と命名しておこうとした訳であります。パウロは「知られざる神」と刻まれている祭壇を見て、アテネの民が真の神について知らないのであれば、その神は何であるのか、教えてあげようと言って、演説を始めるのです。 パウロはその神がどんな神であるかを何点かにまとめて語ります。最初は、24節に記されております。「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」とあります。旧約聖書において、ソロモンは神殿を奉献し、主の祭壇の前で祈ったとき、次のように主に言葉を投げかけました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列上8:27) 神殿とは神を礼拝する場であり、ギリシャの神々のように、偶像の神を祀る祭壇ではありません。人間が造った神殿に神がそこに常に留まり、住まわれることはありません。なぜなら、神は天におられ、その天とは、人間が到達することが出来ない場所にあるからです。しかし、それは空間的に宇宙の彼方におられるということではありません。天におられる神について一つ言えることは、神は私たちの心の中におられるのではなく、私たちの外部におられるということです。そして、天におられる神について補足するならば、天という場所には神が存在し、神の支配が及ぶ場所全体が天であるということです。ギリシャの神々は人間が造った祭壇の中にいた訳でありますが、それは言い換えるならば、人間が神様のいる場所を人為的に造れるということであります。しかし、パウロの語る神はそのように人間の思惑、人間の命令で、そこに座す神ではないのです。 また25節において次のようにパウロは神について語ります。「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」 神は土の塵から人を形づくり、そして、鼻に命の息を吹き入れられることによって、人は生きる者になりました。つまり、人間は神によって創造されたのであり、人間が神を創造するのではないのです。言い換えるならば、人間の一切の起源は神にあるということです。その神は、人間が生きるための場所としてこの大地を創造されました。神はこの大地から私たちが生きるための日毎の糧を与えてくださり、私たち一人一人のことを養ってくださります。ギリシャ人の中には、人間が神々のことを養うかのように考える者もあったようですが、そうではなく、パウロの語る神は、私たちがこの大地で生きるために必要な命の糧を与えてくださり、養ってくださる御方なのであります。 次に26、27節においてもパウロは神について次のように語っております。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上に至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」 「一人の人」とは、アダムのことであり、アダムを先祖として、この長い歴史において、多くの人たちが生を受けました。そして、人の数が増えるにつれ、その地域ごとに民族が生まれ、そして、その民族ごとの境界もまた引かれていきました。そのように民族が生まれると、自分の民族が他の民族よりも特別で優秀であると考える傾向が私たち人間にはあります。それはアテネにおいても同様でありました。しかし、それは正しくないということが、アダムから全ての人が生まれたという事実からわかります。それは、私たちの共通の先祖とはアダムであり、アダムを創造したのは神であります。私たち一人一人の起源は神にあるということであります。私たちはどの民族、どの国家に属しようとも、私たちの共通の父は神であり、神はどの人をも公平に愛しておられるからです。従って、特定の民族や国家が優れたものではないと言うことが出来るのです。ここでパウロが民族やその境界、そして、四季折々の季節などを挙げながら語ろうとしていることは、神が人間社会の秩序や自然の秩序を定めておられるということです。このような秩序を私たちは観察するときに、この地上において神の力が働かれていることに気づかされるということです。そして、神がどのような御方であるのかを探し求めるようになるとパウロは語るのです。 このように三つのポイントからパウロが語る神について見てきた訳でありますが、ギリシャの神々とパウロが語る神との違いに気づかされたのではないかと思います。パウロが語る神について共通して言えることは、人間の一切の起源は神にあるということです。ギリシャの神々のように、人間の側において、神を造り出すのではなく、神が私たち一人一人を創造されたということであります。ギリシャ人は自らの哲学を駆使しながら、神々を自らの手で造り出していきました。しかし、彼らは際限なく神を造り出しても、それが全ての神ではないという事実に気づいたのであります。従って、彼らが最終的に行きついた先は、「知られざる神」であったのです。人間側から神へという方向性では、いくら頑張ってみたところでも、「知られざる神」で終わるのです。しかし、パウロが語るように人間は神に創造されたのであります。何度も言うように私たち人間の一切の起源は神にあるということであります。それですから、私たちは神を知るときに、人間から神を知ろうとするのではなく、神の御言葉を通して、つまり聖書を通して、私たちは神から人間へという方向性において、神について見つめていくという態度によって、私たちは神について知ることが出来るのです。 次に30節を見ていきましょう。「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」 アテネの人々は自らの手で祭壇や偶像を造り崇めていたというのが、「このような無知な時代」であり、神は人々がそのように思い思いに我が道を行くままにさせておいたのです。神はそのように無知であることに猶予期間を与えていたということであります。しかし、いつまでも無知であるということは許されないとパウロは語ります。これからは偶像の神を打ち捨て、真の神を知るために、悔い改めなければならないと神が命じておられる、そのことをパウロは民に告げ知らせております。この「悔い改める」という言葉でありますが、考えや視点を変える、という意味を含んでおりますので、「悔い改める」ということは「視座を移すこと」という意味にも理解することも出来ます。視座を移すということは前の視座から新たな視座へと移すことであります。その前の視座とは、無知であり偶像の神々を崇拝していたあり方であります。偶像とは何かと言いますと、人間が造り出した像であります。それは人間から神という方向性であり、人間が神の上に立つという視座であります。そうではなく、パウロは新しい視座である、神から人という方向性の中に、つまり、神ご自身の御言葉を通して神を見つめ、そして、知っていくということが新しい視座なのであるとパウロは語るのです。そのように神へと視座を移すことによって、神に立ち返る必要をパウロは民に知らせたのです。 パウロは続けて、神についてさらに詳しくアテネの人々に向かって教え諭します。そのことは31節に記してあり、お読みいたしますと、「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 「先にお選びになった一人の方」とは言うまでもなく、主イエス・キリストのことであります。主イエスは父なる神にこの地に遣わされ、そして、我々一人一人の罪を負うために、十字架に架かり死んで下さりました。そして、三日後に死者の中から復活され天に昇られました。私たちは父なる神が御自身の御子をこの地に遣わして下さったゆえに、私たちは神について知ることができ、また、主イエスの十字架と復活との事実により、私たちの将来における永遠の命を保証して下さったのであります。私たちは主イエスの再臨を待ち望み、最後の審判が行なわれるとき、私たちへの救済の業は完成するのです。そして、そのとき、私たちに永遠の命が与えられ、そして、神の国へと招き入れられるのであります。パウロは、この節において、主イエスの十字架と復活が、私たちの永遠の命の先駆けになったことをアテネの民に告げ知らせたのであります。 真の神を知らないアテネの人々は、自らの知恵と知識により神々を造り出したわけでありますが、彼らの行き付いた先は、「知られざる神」でありました。このことは、私たちへ警笛を鳴らすことになるでしょう。私たちは、聖書を読むことを忘れ、神から離れ、そして、自らの知恵や知識に寄り頼むようになったとき、神ではないもの、例えば、拝金主義や、物質主義、そして、愛国心などに寄り頼むようになります。しかし、それら人間の知識や知恵を投影した偶像は私たちに真の神を証しするものではなく、常に不安と脅えを生み出し続けるのです。パウロが偶像を崇めるアテネの民に悔い改めを語ったように、私たちは古い視座ではなく新しい視座を持たななければなりません。その新しい視座とは繰り返して言いますように、神から人間へというベクトルであります。私たちは真の神が示されている神の御言葉を見つめ、その中に記されている主イエスの十字架と復活における私たちの将来における救いの御業を知り、そのことを丸ごと心に受け入れるときに、私たちは真の神はどのような御方であるのかについて知ることが出来るのです。 |
飯能教会 木村光寿伝道師 (きむら こうじゅ) |
今月のみことば | H O M E |