2017年9月のみことば

イエスは嘆き悲しむ者と共におられる

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
               (ルカによる福音書7章11〜17節)

 このルカによる福音書7章11節から17節は、「一人息子を亡くしたナインのやもめ」の記事と言われるものです。ここでイエス一行は、カファルナウムから約40q南にある、ガリラヤ南部のナインという町に来られたのです。今、イエス一行がナインの町に入ろうとする時、反対にナインの町を出て行こうとする一つの集団に出会ったことが、11節から12節で語られているのでした。その集団は悲しみに暮れながら、一人の女性を先頭に、泣き女や笛を吹く人々を伴いながら、棺と共に行進する葬送の行列であります。

 この棺と共に歩くことをハルバヤと言われ、愛する者を最後の休息地まで、愛する者を見届けるという気持ちが込められているのです。また、このハルバヤによって、死者との惜別の情を象徴するものと考えられているのです。当時、人が息を引き取ると、そこに居合わせた人々が大声で泣き叫び、隣人はその人々の泣き声によって死の事実を知り、家に共に集まって来て、その死を心から悲しむのです。そして直ぐに死者の眼と口が閉じられ、最も近い近親者が愛惜の接吻をして、その顔をシーツで覆ったりすると言われるのです。

 日本の「墓地、埋葬等に関する法律」によれば、死者は24時間を経過しないと火葬も埋葬も禁止されていますが、当時のユダヤ教では、早く死者を土にかえすことが、死者への畏敬の念の表れだと考えたのです。そのために申命記21章23節で「死体を-----夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない」と語るように、よほどの事情がない限り、死後24時間以内に埋葬するように定められているのです。まさにイエス一行が出遭ったのは、愛する者を早く埋葬するための葬送の集団でありました。この葬送の集団の中に、愛する者と別れなければならない、家族への深い愛情と悲しみが語られているのです。

 例えば、典型的な葬りの記述が、サムエル記下3章31節から35節に出て来るのです。その記事を見てみますと、ダビデ軍の長であるヨアブが、自分の弟アサエルの復讐のために、かつてサウル軍の司令官であったアブネルを暗殺してしまったのでした。ダビデはアブネルの死を悼むため、ヨアブと彼の率いる兵士全員に、「衣服を裂き、粗布をまとい、悼み悲しんでアブネルの前に進め」と命じ、ダビデ自身が棺の後に従って墓に向かったことが描かれているのです。ここにも死者に対する深い愛情と悲しみが語られているのでした。

 今、すれ違うイエス一行と葬送の行列の中に、二つの対照的な人間の姿が描かれているのです。その一つはイエスを信じ、喜びに満ちあふれて従ってきた、大勢の人や弟子たちの姿があるのです。もう一つは「一人息子を亡くしたやもめ」と、その悲しみの葬送の列に加わる、町の大勢の人の姿でありました。ここにイエスの教えを信じ、神の愛と喜びの中で、新しい人生を歩み始めている人々と、逆に人間的な苦しみと悲しみの中で、がっくりと肩を落として葬送の行列に加わる人々の姿が、余りにも対照的に描き出されているのです。しかし、この一人息子のように、親に看取られ、町の人々に悲しまれることは、ある面では幸せなことでもあるのです。現実には家族に看取られることも、周りから悲しまれることも、知られることもない、寂しい葬りもまたあるものです。

 例えば、三浦功神父の『人間、死んだらどうなる』(サンパウロ)の中で、次のような悲しい死の現実について語られているのです。
 ある日、近くの葬儀屋さんから次のような電話が教会にありました。「ある老人施設で亡くなられた方があって、そこからその方の葬儀のお世話をしてほしいと言ってこられたのです。その方は誰も身内がなく、独りぼっちだそうです。施設では葬儀が出来ないため、結局、私の所へ引き取ることにしました。その方の所持品から、どうやらカトリックの信者さんのようですので、お宅に電話をしたわけです。まことに恐れ入りますが、その方のためにお祈りに来ていただけませんでしょうか」。そこで、私は直ぐにその葬儀屋さんに行きました。するとその家の一室にささやかな祭壇が作られており、棺もそこに置かれてありました。私はこの親切な葬儀屋さんご夫妻と三人で、お通夜の祈りをし、また次の日の朝、出棺の時の祈りもしました。火葬場へついていく人が誰もいないので、私が一人お供しました。お骨は後で市の墓地の無縁者の所へ入れてもらえるとのことでした。本当にわびしい、そして気の毒なお葬式でした。身内の誰からも、そして一人の知人もいないこの年老いた人のことを思うと哀れでした。でも、神様はこのような人でも決してお見捨てにはならないでしょう。-----この世がこのような人を見捨てたとしても、神様だけは決してお見捨てにはならないでしょう。その人の気の毒な身の上、一切の事情などなどは神様だけがご存知です。このような気の毒な人をどうして放っておかれるでしょうか。いや、必ずご自分のふところに迎え入れてくださるに違いありません。

 このような悲しい死の現実が語られていますが、単独で生活している人ばかりでなく、高齢者対象の施設などに居ても、一種の孤立死・孤独死のようなものが起きると言えるのです。

 例えば、高齢者の問題を、2015年6月4日現在における厚生労働省の平成27年国民生活基礎調査の概況から見ますと 、全世帯の47.1%が65歳以上の高齢者がいる世帯であるのです。この65歳以上の高齢者がいる世帯を、世帯構成別で見てみますと、どちらかが65歳以上の高齢者のいる「夫婦のみの世帯」が31.5%でありました。次に65歳以上の高齢者のみの「単独世帯」が26.3%で、この高齢者の「単独世帯」は全世帯の約12.4%に当たり、年々高齢者の単独世帯が増える傾向にあるのです。高齢者を孤立死させないためにも、高齢者の地域住民との交流や、地域の見守りという必要性が出て来るのでした。そのために誰にも看取られることなく、死を迎えるという孤立死・孤独死の問題は、社会や地域全体で考えなければならない問題でもあるのです。

 そこで高齢者の孤立死・孤独死の問題を考えて見ますと、イエスは「ナインのやもめ」のように嘆き、悲しむ者と共にいるだけでなく、さまざまな事情の中で亡くなる高齢者や孤立者とも共におられるのです。この孤立死・孤独死の問題は、高齢者だけでなく、比較的若い世代にもあるのです。特に地域社会や血縁との関わりが希薄な、四十代から五十代の独身男性に多いと言われるのです。そのことは人間である限り、年代に関係なく、誰にでも直面する問題でもあるのでした。つまりイエスは、いつも嘆き、悲しむ者の傍らに共におられ、私たちを見守っておられるのです。

 もし誰にも看取られず、残念ながら孤立死・孤独死を迎えることになったとしても、イエスが一人ひとりの行き先を「あなたがたのために場所を用意して下さる」と、ヨハネによる福音書14章2節で語るのです。そのためにイエスは、孤立・孤独の中で生涯を閉じる者を見捨てず、それが人間的に見て、寂しい生涯の終わり方であったとしても、この地上よりもすばらしい場所に、私たちを迎え入れ、私たちを救って下さるのです。そこに行けば決して寂しくはないのです。神と共に生きる生活こそ、涙を拭い去り、孤立や孤独が癒され、神の恵みに満ちたものとなるのでした。

 このように嘆き、悲しむ者と共にいつもおられるイエスが、「ナインのやもめ」と直接出会うことになったことが13節で語られているのです。イエスは「ナインのやもめ」の姿を見ると、「憐れに思」われたのでした。これは彼女が背負っている、口では表現出来ない悲しみを知っていたからなのです。この「憐れに思い」とは、「はらわたが痛む」ほどの激しい心の動きを示すものであります。この部分を他の訳と比較しますと、口語訳では「深い同情を寄せる」となっており、岩波書店の新約聖書翻訳委員会訳では、「断腸の想いを覚え」となっているのでした。また、新改訳では「かわいそうに思い」となっているのです。このような様々な訳があるのは、日本語では表現出来ないほどの心の動きが、人間存在の深みまで入り込み、自分のはらわたが痛むほど激しく動かされるという、深い同情を表わすものだからです。
 
 そこでイエスは既に夫を失い、今また一人息子も葬ろうとしている「ナインのやもめ」に自ら歩み寄り、「もう泣かなくてもよい」と語り掛けるのです。この「やもめ」ばかりでなく、誰にとっても親より子どもが早く亡くなるということは、余りにも悲しく、悲惨な出来事であるからなのです。それは親にとって子どもの成長は大きな楽しみであり、また喜びでもあるのです。そのために親は子どものために苦労し、疲れもいとわず働き続けることが出来るのです。

 そうするのは子どもに対する深い愛情であり、子どもの将来や夢の実現を心から願うからでした。つまり親はどこかで子どもの将来を夢見て、それを支えに生きているからなのです。そうした親の喜びや願い、あるいは未来や希望と言ったものが、子どもの死によって、無残にも打ち砕かれることになったのです。しかも夫は既に、この世に存在しないため、自分の支えとなる者がいない、という二重の苦しみを背負うことになったのです。

 そこでイエスは「泣かなくてともよい」と語ることによって、闇の世界に立ち尽くし、その場で泣き続けることしか出来ない「やもめ」に、新しい命の光りを照らすのです。もしイエスが私たちと同じような無力な方であれば、この「やもめ」を憐れに思い、同情してただ泣くだけであったのです。しかし、イエスは悲しみの前にただ立ち尽くだけではなかったのです。この「やもめ」に語りかけるイエスは、まさに新しい命をもたらす方であり、そのことを明らかにするために、私たちの間に来られたのです。

 今、イエスは、14節で「近づいて棺に手を触れられると、-----若者よ、あなたに言う。起きなさい」と呼び掛けるのです。ここでイエスは、「棺に手を触れられる」と語るように、軽く触れるようなニュアンスで言われていますが、ここで使われているギリシア語のハプトマイは、「しっかりと抱きしめる」という積極的な意味があるのです。つまりイエスが、「ナインのやもめ」の嘆き、悲しむ、その痛ましい姿に、はらわたを突き動かされるほどの痛みを共感する行動として、棺をしっかり抱きしめるような行動に出たのです。

 さらにイエスの驚くべきその行動は、死に対する汚れを無視したものであったからなのです。当時、死体やそれに関係するものに触れることは、民数記19章11節によれば「どのような人の死体であれ、それに触れた者は、七日の間汚れる」と語るように、汚れが伝染すると考えられているのです。しかし、イエスは救いのためには、そのような汚れを気にしない方であり、人間の悲しみや人間の痛ましい姿を見て、心を閉ざしておくことの出来ない方だったのです。イエスは遺体に語り掛けることによって、人間の悲惨さの深みまでぐっと入られたのでした。それによって嘆き悲しみの中にある人間が、再び闇から目を覚ますことになったのです。しかし、この若者も人間である限り、時が来たらラザロやヤイロの娘と同じように、またいつかは死ぬことになるのです。

 そのためにイエスはわずか数十年の命を与えるために、この世に来られた訳ではないのです。この奇跡はイエスを通して、神が人間にお与えになる永遠の命への出発点となるためでありました。つまりイエスが救い主として、この世の現実に降って来られたのは、永遠の命に生きようとする人間を捉え、新しい命に生きる者へと造りかえるために来られたのです。このように自ら歩み寄るイエスとの人格的な出会いを通して、イエスを信じる者にとっては、もはや死は終わりではなく、新しい命の始まりを意味するものとなるのでした。

 私たちは人間であるある限り、死を迎える時が必ずやって来るのです。そのために老いと死という現実を見つめることもまた大切なのです。例えば、柏木哲夫の『死を看取る医学』(日本放送出版協会)の中で、次のように老いと死の問題を語るのでした。

 評論家の堀秀彦氏は「七十過ぎまでは、私が死に接近しているのだと思っていた」と書いています。死が向う側にあって、自分が一日一日、死に近づいていく感じがしていたというのです。「七十の末までは『いつでも死ねるし、あるいは生きていたっていい』と、生死は自分の選択範囲内の問題だと考えていた」とも書いています。つまり、死が向う側にあって、自分が死に近づいていくわけですから、少しペースをゆるめたり、自分でそれを規制したり、支配したり、そういうことができるという感じをもっていた。ところが、「八十歳過ぎると、死が私に接近してくる、と思うようになった」。-----八十二歳になった時に、今の自分の気持ちとしては、自分が死へ近づいていくのではなく、死の方が自分に迫ってくる感じがするというのです。

 この本の中でも語っていますように、人が死に向かっているのではなく、実は死が自分の方に迫って来る、ということの方が真実に近いのではないでしょうか。いずれにしてもキリスト者もまた死を避けることの出来ない存在であるのです。しかし、若い時には死そのものが遠い存在のように感じているものです。この「ナインのやもめ」の息子も、遠い存在であった死が、突然思いがけない時にやって来たのです。特に「やもめ」にとっては、まさかそんなに早く息子が亡くなるとは思わなかったことでしょう。しかし、死の現実は突然やって来るからこそ、そこに悲しみが生じるのです。

 今、悲嘆の叫び声を上げている「やもめ」に、イエスは耳を傾けるのです。このイエスが「やもめ」の若者に呼びかけると、15節で「死人は起き上がって物を言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」と語るのでした。この状況は、列王記上の17章23節で、預言者エリヤが「やもめ」の息子を生き返らせて、その息子を母親に渡したという記事を思い出させるものです。しかし、そこに描かれている預言者エリヤとイエスとの間には大きな違いがあるのでした。
 預言者エリヤの方は、神に向かって必死に祈り、何とかその子を生き返らせようとしますが、イエスは力強い言葉を語ることによって、悲惨な状態の中にある若者を生き返らせたのでした。そのことを考えて見ますと、イエスは預言者以上の方であることが明らかになるのです。このイエスの力強い語り掛けによって、町の外に運び出すしか出来ない遺体が、死者の国から再び母親のもとに戻されることになったのです。

 この死者を生き返らせ、母親のもとに戻すというイエスは、旧約の預言者に結び付けられるばかりでなく、悲しみの中に立ち尽くす者を、イエス自らが捜し求める救い主として描かれているのでした。このイエスに捉えられた者は、永遠の命に与る者として、新しく造り変えられるのです。つまりキリストが、死んだ若者を生き返らせたのは、そのことによって、再び地上で生きるためではなく、地上の命を越えた永遠の命に導くためのものであるのです。この永遠の命はイエス・キリストを信じる信仰により、神から恵みとして賜るものであるのでした。

 特に死に直面した者にとって、死後の問題は大きな関心でもあるのです。例えば、藤井理恵・藤井美和の『たましいのケア』(いのちのことば社)の中で、ホスピスに入院中の患者が、突然キリストによって心が開かれたことを次のように語るのです。

 五十八歳の女性Nさんは、入院中は「いつ死がやってくるのか」「死んだらどうなるのか」という思いから、抑うつ状態になってしまいました。そして向かいのベッドの方の病状が悪化したとき、見ていられないとむりやり退院していきましたが、二週間ほどで再入院となりました。再入院のお昼に、病室で放送されている聖書のメッセージを聴いたのでした。その日の放送は、「神さまに対して、心を開きましょう」という内容でした。これを聴き、突然神さまに対して心が開かれたような体験をしたというのです。「不思議ですね。今までいくらでも神さまの方を向く機会はあったのに、今日お昼の放送をお聴きして、こういう気持ちになるなんて-----」私は、Nさんが「死んだらどうなるのか」ということが怖くて苦しんでいたことを知っていたので、ヨハネによる福音書を共に読みました。「イエス・キリストが私たちより先に行って場所を用意してくださる。場所の用意ができたら迎えに来てくださる。」すると、Nさんは次のように言いました。「不安が一つ減りました。死ぬ時も神さまが決めてくださるし、行く所が必ずあると思えるから」と。その後、-----Nさんの病状が急変し、多量の出血があったと病棟から連絡が入ったのです。私が部屋を訪問した時には既に意識はほとんどありませんでした。そばで祈り、部屋を出た私をNさんのお嬢さんが追って来て、「母は、亡くなる前に洗礼を授けてほしいと願っていました。意識がなくなる前に私にそう言いました」と涙ながらに訴えました。すぐに洗礼式を行うことにしました。「洗礼を授けますよ」と声をかけるとNさんはぱっちりと目を開き、うなずきました。また洗礼式の後も、「おめでとうございます」という言葉にしっかりとうなずきました。そして安心したように、その日の夜、天に召されていきました。

 このようにホスピスでの御言葉との出会いは、「ナインのやもめ」と同じように、キリストとの出会いであり、その出会いによって新しい命への道が開かれることになったのでした。彼女はホスピス病棟で流れる聖書のメッセージを通してキリストに出会い、キリスト自らが彼女の頑なな心を開くことになったのです。このようにキリストは出会いを求める者に、自らが歩み寄り、その心を開けて下さるのです。キリストに本当に出会った者は、頑なな心を開けざるを得ないのです。つまりイエスを通して語られる、福音の力は人を変えるほど大きなものとなるのでした。

 次の16節では、このイエスの奇跡を目の当たりにした「人々はみんな恐れをいだいた」と語るのです。この「恐れをいだいた」人々は心を打たれ、自分の惨めさと弱さの中から「大預言者が我々の間に現われた」と叫んだのでした。人々にとって、イエスは死んだ者にさえも命を注ぎ込むことの出来る預言者であり、そのイエスが我々の間で、我々と共に生活をされる身近な存在として描かれているのです。人々はこのカファルナウムからやって来た一人の男を、神の愛と神の力を我々にもたらす偉大な預言者として認めたのです。そして「神はその民を心にかけてくださった」のは、悲惨さの中にある人間に、神の愛を知る喜びと永遠の命の光を与えるものとして来られたのです。

 そして最後の17節で、やがて「この話は、ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった」と記されるように、人々にとってイエスの行為は余りにも衝撃的で、驚くべき出来事であったのでした。このように私たちは悲惨さの中にいる時、イエス自らが私たちを捜し求め、イエス自らが歩み寄り、私たちと共にいて下さるのです。イエスは悲惨さの中にある私たちの心の叫びに耳を傾け、私たちを慰め、癒そうとされる方であるのでした。そのイエスを心から信じ、これからもイエスの教えと、その生き方を心に留めて歩みたいのです


秩父教会 温井 豊牧師
(ぬくい ゆたか)





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