2017年12月のみことば


マルコの語る福音の喜び - 1章40~42節に触れて -

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
                (マルコによる福音書1章40節~42節)

 
(一)
 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 マタイによる福音書は、主イエスの宣教開始をイザヤのこの言葉(イザヤ書9章1節)で説明しています。 これに対して、マルコは、カファルナウムの会堂での安息日礼拝がイエスのデビューであります。しかし、マルコは、重い皮膚病を患っていた人の出来事(マルコ1章40~45節)を、その後の主イエスの教えと働きの象徴として位置づけております。

 マタイのように文学的な表現はしておりません。しかし、マルコは、ここに、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」、というべき現実を見ているのです。孤独で、虚しく、絶望的なところに隔離されていた重い皮膚病の人を立ち上がらせ、主イエスの前にひざまずかせたのは何だったか。それは、風に乗って伝わって来た、主イエスについてのうわさでありました。

 聖書学者たちの多くは、マルコの文章の冗長さを指摘します。しかし、冗長で下手な文運びは、福音の出来事についてのマルコの驚きから来ているのではないでしょうか 。読み方によっては、驚きの息づかいが聞こえて来るように思います。

  「そしてね、重い皮膚病人がこの方のところに来たんだよ。この方に助けを求めてね。ひざまずいてさ、そしてこの方に言ったんだ。『もしあんたがしようとさえ思ってくだされば、あんたはおいらを清くすることがおできになる。』、と。」(同1章40節)

 惨めさの中で、孤独の中で、絶望の中で、死を待つ以外に何も将来に期待することのできなかった重い皮膚病人。人々の前に出て助けを求めることなど望むべきもなかった重い皮膚病人が、主イエスのところに出て来たのです。ですから、私たち自身、ここを読みながら、こうした福音の現実に、マルコと共に、驚きつつ感嘆の声を挙げることが期待されているのではないでしょうか。

(二)
 重い皮膚病人のこうした嘆願に対する主イエスの対応についての記述についても、聖書学者たちは冗長さを指摘しています。先の場合と同様に語り口調で読んで行くと次のようになります。「そうしたらさ、イエス様はね、深く憐れまれてね、ご自分の手を伸べてさ、触ってさ、そしておっしゃったんだ。」

 学者たちは、「手を伸べて」、「触る」というのは幼稚な二重表現だというのです。しかし、重い皮膚病の人に触れることは宗教的に汚れる(けがれる)ことで、律法によって禁じられていたことです。それだけに、ここでの主イエスの行動は、決して、あたり前のことではないのです。だから、語り手としては、「何と、主イエスはこの病人に手を伸べてくださったんだ。」「いやそれだけではない。この病人に触れて下さったんだ。」、と驚きを隠せなかったのではないでしょうか。

 そして、大切なことは、主イエスのお答えです。新共同訳聖書は、「よろしい。清くなれ。」と訳しています。しかし、原文では、「私はそうしてあげようと思う。清くなりなさい。」となっているのです。つまり、「もしあんたがしようとさえ思ってくだされば、あんたはおいらを清くすることがおできになる。」と、重い皮膚病の人が嘆願したことに対して、「私はそうしてあげようと思う。」、と答えて下さったのです。

(三)
 主イエスは、私たちに約束をお与え下さいました。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」、と(マタイによる福音書18章19節)。実は、主イエスは、重い皮膚病を患っていた人の求めることに心を合わせて下さったのです。風のたよりに乗って伝えられた福音がこの病人の心に願いと行動を起こさせ、そして、主イエスがこの病人の願いに心を合わせて下さった。ここに、マルコの伝えたい福音の喜びがあります。
北本教会 阿部洋治牧師 (聖学院大学名誉教授)
(あべ ようじ)




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