2018年1月のみことば

平和の王

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
                (イザヤ書11章1~10節)

 イザヤ書11章の小見出しは「平和の王」となっています。
 誰でもが思う事でしょうが、わたしもまた2018年も平和であって欲しいと願います。
 昨年は殊に北朝鮮のミサイルの立て続けの発射に世界中が騒然となりました。次々に日本海にあるいは日本上空を飛んで太平洋に落下する。当事国は世界の非難にも馬耳東風でミサイルの威力による外交で自国の生き延びる方法が最上と確信しているようです。
 これに対しアメリカはトランプ政権になってからというもの、この挑発に容易に掴まり国の指導者とも思えない応答をしています。まかり間違えば、彼ら敵対する者同士の言葉の応酬で本当の武力の応酬に突入する可能性さえあります。全く0ではない。
 戦争を一度経験された方たちは戦争の現実の恐ろしさ、酷さを身でご存じですから、この危険を何が何でも避けなければならないとお考えの事を新聞の投書で知ります。
 アメリカはもちろん日本もかの国には敵と見做されてミサイルの射程に入っています。

 見上げれば、青い空には白い雲が浮び、地上の激しい憎しみの応酬を知らぬげに清らかです。この空を憎しみの塊が、破壊の塊が飛ぶようになるなど考えられない程青い空は高く澄みきっています。
 所で、今から2700年も前のこと、預言者イザヤが預言をしていた時代のイスラエルには二王国、北イスラエルと南ユダ王国がありましたが、イスラエルの東にあった大国アッシリアは北王国に迫り、首都サマリアを陥落させ、滅ぼしました。
 ユダ王国にもアッシリアは迫ってきました。
 アッシリアは神に従わぬイスラエル二王国を諫める為に用いられた怒りの鞭・杖(10章5節)でありましたが、アッシリアは自分の力によってこれを踏みにじったのだと己の力を誇り、おごり高ぶりました。この故にアッシリアは神によって滅亡を預言されたのです。預言通りにアッシリアは退くことになり、ユダ王国に平安が戻りました。
 この時イザヤは預言したのです。
 イザヤ9章3-4節「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」
 アッシリアは折られ、軍靴の轟は消え、戦争は無くなって平安が訪れたのです。

そしてイザヤは預言して言いました。
「 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。

 ‟株“とは樹の切株の事で、樫の木が根元から切られ切り株だけが残った姿です。アッシリアに、又諸大国に攻められ痛めつけられるこの国はまさしく、根元から切られた切り株である。しかし、時を置いて命が失われたと思われたこの切り株から芽が出る。つまり、エッサイの株、エッサイを父とするダビデの子孫から一人の人が若枝のように育つ。人間の歴史の興亡に埋没したと思われた家系から一人の人が起こされる。

 平和の王である。
 ‟彼”はどのように平和を作り出すのか?
彼の武器は唇、つまり口から出る言葉である。
彼の唇には神の霊がとどまり、霊の言葉を語る。
彼は神のことばを語る。神の霊が彼に言葉を与えるからです。
彼は神の知恵の霊によって物事の全てを誤りなく識別できる。
そこには深い思慮があり何物をも恐れぬ勇気がある。
彼は主を知り、主を畏れ敬う霊の持ち主だからである。
ですから、全ての判断は見えない神の霊による。
人間が耳目で見た事聞いたことで判断するのとも、経験から判断するのとも違う。
又人間の内にある良心に従うものでもない。それとも違うのです。

 神のみ旨にしたがって裁きを行うのでありますから、耳目に惑わされません。私たちは如何に正当に裁く人があろうとも、自分自身から逃れることのできる人はいません。“彼”は神の目で裁く。人の見ええない所をも白日のように見通し、自分の利害は皆無で、尚且つ何物をも怖れない勇気の持ち主です。その人の裁きは誤ることもなければ、曲げられることもありません。
 誰もが見捨てた弱い者、貧しい者の味方となり、世の富や権力に振り回されないというのです。
 彼の平和には正義と真実がある。そして不正義、不公平には神の義を持って戦うのです。そうした平和の王の支配する所では獣たちさえもが平和を味わうのです。狼のような肉食の動物も、子羊を襲わず一緒に眠るというのです。
 なぜにそのようなことが起りえるのか。それは神の知恵が地上を覆うからであるとイザヤは言いいます。それは彼にとって、海を海水が覆っているのが当たり前の如く確かなことだからです。なぜというなら、神が世界を創造された時は肉食獣も含め、すべての命ある動物は地に与えられた草を食物としていたからです。

 創造の始めから肉食動物が弱い動物を餌としていたなら、弱い動物はほどなく絶滅していたでしょう。肉食が始まったのはノアの洪水の後からであると言われています。ノアの洪水物語を映画で見ました。二頭づつ、ライオンや豹のような肉食獣が弱い草食動物と並んで箱舟に入ってゆく。狭い箱舟の中で猛獣は弱い動物を襲うことなく共に寝起きするのです。そこにまさに、イザヤのいう理想の神の王国が見える。しかし、人間の世界は経済的不均衡が行き着くところまで行った感があります。この先も更に国レベルで弱肉強食の様相を呈する事でしょう。狼やライオンは子羊や小動物を襲うい、収奪するでしょう。しかし、神に従う道には強弱はない。イザヤの預言はありえないことを言う無責任な預言ではありません。
 イザヤは言いいます。「彼(メシア)には神の知恵が満ちている。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り恐れ敬う霊。」と。
 この2章前の9章に、主イエス・キリストの誕生が予言されています。
 「一人のみどりごがわたしたちの為に生まれた。…その名は平和の君と唱えられ、ダビデの王座と王国に権威は増し平和は絶えることがない。」平和の君は弱い人の為に正当な裁きをし、貧しい人を弁護し、そして神に従わない者に死をもたらすのです。

 平和の王は武器を用いて相手を負かすのではありません。唇、つまり言葉をもってなさるのです。
何と畏るべきお方ではありませんか。
 私達人間は本当に畏れるべきお方を持たなければ、どこまでも増長する御しがたい動物でしょう。人類は地上にいる動物の内一番霊に富む為、霊長類の頂点に立つと言われながら、悪をなす動物に成り下がって、自分たちの首を自分たちで締め付けているのが今の私達人間です。そしてそれを進歩とか発展とか言って自画自賛していますが、現実を見ると、歴史を後戻りさせたい程の深い反省がある筈であります。しかし、後悔があても、もう後戻りはできません。
 知恵のなさを暴露している動物です。
 なぜ知恵が失われるのか。神を神とせず、神のことばを聞いても行わない為です。
 これはイザヤの時代と全く同じです。イスラエル王国の北と南の王国は神に鞭打たれましたが、彼らが神のことばを聞いても行わなかったからでした。

 鞭うつ、これは神の愛でした。
 そしてまた愛によって折れた膝を立たせて下さるのも神であります。
 何によって破滅寸前の国は立ちうるのでしょうか。それは希望によってです。
 希望があって初めて立つ事が出来るのです。
 正義の上に平和を築く神が来られるという希望です。
 神はイザヤを神の御心を伝達する者としてお用いになられました。
 イザヤは希望を語りました。
 「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を納める為に立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」と。
 使徒パウロはローマ人への手紙15章12節で、このイザヤの言葉を引用して、「エッサイの根は全ての民の旗印として建てられ、国々はそれを求めて集う。その留まる所は栄光に輝く。」と語っています。このお方こそ主イエス・キリストでありました。
 主キリストの最後は栄光とは言い難い十字架上の惨めな死でありました。が、しかし、この死、遂げられた死を表わす十字架の下に人々は集まったのでした。そして、こんにちの私たちも集まるのです。そこに神の栄光が輝き、平和が生まれたからです。神の愛があるからです。彼の平和はこの様に構築されるのです。

 私達人間は平和を願いながら逆を行っています。地上の人間が如何に誤りを犯すものであるかを私たちは多くの失敗の経験で味わっています。第二次世界大戦でおびただしい同類が殺し合いました。神に造られた動物たちが殺されました。本来、神の御心に従うならば起こりえないことです。
 2018年の今年、地上で命あるもの全てが損なわれることのない平和の世界であって欲しいと願います。主キリストの犠牲の死は人類を救おうと意図された神の究極の愛です。
 私たちはこの神の愛に応えつつ今年も歩んで行きたいと願います。

上尾使徒教会 武井アイ子牧師
(たけい あいこ)





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