2018年3月のみことば

それをここに持って来なさい

 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
                  (申命記8章3節)

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
                  (マタイによる福音書14章13~19節)

1、挨拶 ~ヒゼキヤの癒しの恵みに与かって~
 今日から本庄教会の 兄弟姉妹の皆様と一緒に、礼拝を共に献げます疋田國磨呂であります。よろしくお願い致します。
 最初、わたし自身のことを自己紹介がてら、少しお話させていただきます。
 私は、10年前、関東教区の教区議長になった年の8月、右の腎臓に癌が発見され、右の腎臓を全部摘出しました。それから、5年後の2012年9月に、残された左の腎臓に癌が再発し、両肺にも転移して、余命1年と言われました。しかし、皆様の祈りと神様の憐みをいただいて、良き医師と良き治療を与えられて、再発して2年後に、「疋田さんの体には目に見える癌はもうありません」と言われました。その時、ヒゼキヤが病気を癒され、「わたしはあなたの寿命を15年延ばす」と言われた時のことを思い起こし、神様はヒゼキヤの癒しの恵みを私にも下さったのだと信じました。

 腎臓癌が再発した時、妻の勝子は、私がてっきり車椅子になると思って、日赤の近くにマンションを購入しました。大宮教会の牧師も引かなければと招聘委員会を設けました。しかし、両肺への転移癌は消え、再発癌も癒されて来たのです。都市計画による大宮教会の新築計画もどんどん進み、とうとう2年計画の新会堂建築も完成しました。完成後、退任することを繰り返し長老会に伝えていたので、新会堂完成と共に、後任人事も決まり、2017年3月で大宮教会を辞任しました。
 私は、ヒゼキヤの癒しの恵みに与かったと信じた時、15年は神様の御用のためにささげることができるのだと思いました。そして、神様、私は何をすることを望まれているのかを祈り求めつつ歩んできました。

 その1つが、大宮教会の新会堂建築計画を完成させることでした。
 そして、2つ目が本庄教会への就任でした。本庄教会のことは1月末に、秋山教区議長よりお話を伺ったのです。それまでは、本庄教会の飯野先生が辞められるとの話は常置委員会では伺っていたのですが、まさか私が本庄教会からの招聘を受けるようになるとは思ってもみませんでした。それだけに、お話を伺ったとき、神様のご命令と受け止めたのであります。

 パウロは、エフェソの信徒への手紙3章20節に「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と、神様のことを語っております。神様の御心は、人知を超えた所にあると信じて祈っていた私は、本庄教会のことを思ってもみなかっただけに、秋山先生からお話を伺った時、神様の御心として受け止めました。神様は、本庄教会を通してどんな御業を展開してくださるのかと、神様に期待し、楽しみにいたしております。

2、五千人の給食の奇跡
 本庄教会の皆様と共に、最初に共にしたい聖書の出来事は、イエス様がパン五つと魚二匹を分かち合って、多くの群衆を満腹にさせた出来事です。聖書には「五千人に食べ物を与える」と小見出しにあります。また、申命記8章3節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。」とあります。これは、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民がモーセに率いられて、約束の地・カナンを目指して荒れ野を旅した時のことです。荒れ野ですから、「食べるものや水がない」と言って、モーセに不平不満を言う民のことをモーセが神様に訴え祈ったところ、神様は毎朝マナを降らせて民を養い癒されたことなのです。

今日は、これらの出来事から3つのことを学びたいと願います。
(1)<祈る人・イエス様>
13節に「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」記されています。
14章12節に、ヘロデによってバプテスマのヨハネが首を切られて殺された時、「ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスの所に行って報告した。」とあります。
イエス様は、そのことをお聞きになって、ひとり人里離れた所に退かれて神様に祈られたのです。イエス様は、神の子ですから、神様と向き合って祈る時を持つのが当然かもしれませんが、絶えず祈られ、神の御心を尋ねられるお方です。
 私たちも絶えず神様の御心を尋ね求めることが必要であります。私たちの祈りは、「何々してください」「これこれをください」と求める〝請求書の祈り〟が多いのです。しかし、感謝しますという〝領収書の祈り〟が大切なのです。ところが〝領収書の祈り〟が何かなかなか分からないのです。そのためには、ただ祈るのではなく、まず御言葉に聞くのです。聖書の御言葉は、神様とイエス様の御心を示すものであります。「神様、こういうことをしたいと思います。あなたの御心は何ですか」と祈りつつ御言葉に聞くのであります。そうすると、神様の御心が分かり、御言葉を通してたくさんのいただいているものに気づかされるのです。すると「神様、ありがとうございます」と〝領収書の祈り〝ができるようになるのです。

(2)<憐み深いイエス様>
 群衆たちは、イエス様が祈られる対岸まで歩いて行きました。イエス様は、舟から上がると大勢の群衆がもう先回りしているのを御覧になって、深く憐れみ病人を癒されました。
マタイ10章35~38節に、イエス様は次のように群衆に心を寄せられています。
「イエスは町や村を残さず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで弟子たちに言われた。『収穫が多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
 イエス様は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見られたのです。この視点は、イエス様の時代も今も変わらないのではないでしょうか。
 イエス様は、もし、この本庄市に来られたら、同じようにおっしゃるのではないでしょうか。本庄市の人々も、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのです。」
そこで、イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われるのです。
 私たちは、イエス様の深い憐みをいただいて救われている者として、この救いの喜びを本庄市の人々と分かち合うことができるように、とりなしの祈りをする働き人としてイエス様から求められているのです。

(3)<食べ物の分かち合い>
  弟子たちは、夕暮れになったので、イエス様の所に来て言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と。すると、イエス様は言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と。弟子たちは言いました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエス様は「それをここに持って来なさい。」と言われました。
そして、イエス様は群衆を草の上に座るようにお命じになりました。
 すると、イエス様は五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちは、そのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠いっぱいになった。食べた人は、男と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 この出来事は、弟子たちが群衆のことを心配して、解散させて、自分たちで食べ物を買いに行かせてくださいとイエス様に提案したことから始まります。しかし、イエス様は、行かせることはない。弟子たちに、あなたがたが群衆に食べ物を与えなさいと命じたのでした。弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と答えました。弟子たちは、パン五つと魚二匹しかなく、これだけでは何の役にも立たないと思ったのです。この弟子たちの思いは、私たちの思いでもあります。これだけでは、何の役にも立たないと、持っているものだけでなく、自分の存在すらそのように思っている人もいるのです。しかし、イエス様は、これだけしかないと思っているものを「それをここへ持って来なさい」と言われました。
 弟子たちは、何の役にも立たないと思っていたパン五つと魚二匹をイエス様に差し出すと、イエス様はそれを受け止め、天を仰いで賛美と祈りを唱えて、弟子たちに分けて配らせると、群衆皆が食べて満腹したのです。

 神様の御業は、信じる人々が持っている賜物を用いてなされます。神様は、本庄教会をここに建てられたということは、イエス様が本庄市の人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを御覧になって、深く憐れんでおられ、「収穫が多いが、働き手は少ない」と言っておられるように、私たちを用いて御業をされようとしておられるのです。
 皆さんは、この弟子たちのようにパン五つと魚二匹しかないとの思いでおられるかもしれません。自分の持っているもので何の役に立つだろうかと思っておられるかもしれません。しかし、イエス様が「それをここへ持って来なさい」と言われたお言葉に従って差し出すと、イエス様は皆さんの持っているものを祝福して用いてくださるのです。私たちの思いを超えた御業に用いてくださるのです。
 高齢で何もできないと思われる方は祈りができます。祈る時、神様はその祈りを用いて御業をなさるのです。〝祈りは労働である〟(フォーサイス)と言われます。

 私は余命1年と告知されましたが、教会の方々がよく祈ってくださいました。祈りは必ず受け入れられると信じていました。いつもと変わりなく講壇に立っていたので、「疋田先生、本当に癌なのですか」と言われたくらいです。祈りのある所に癒し主であるイエス様がいつもいてくださいます。
 インマヌエルと言われる復活のイエス様は、どんな時でも御一緒くださいます。今も、この会堂の礼拝の真ん中におられます。本庄教会が、この町の人々の魂を刈り取って主に献げるためには、「それをわたしのところに持って来なさい」と命じられたお言葉に、勇気をもって「これしかありませんが、お用いください」と差し出すことから始まるのです。私と一緒に、この呼びかけに応えて行きましょう。イエス様は本庄教会の皆さんが差し出すものを祝福して用いてくださいます。
 今から1年、神様はどのような御業をなさってくださるのでしょうか、〝領収書の祈り〟ができるような信仰生活を献げて行きましょう。

本庄教会 疋田國磨呂牧師
(ひきた くにまろ)





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