2018年5月のみことば

バベルの塔 / 巴别塔

 全地は同じ発音、同じ言葉であった。 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。
              (創世記11章1~9節、 创世记11:1-9)

日本語
一、 前言

 今日の聖書の箇所は、口語訳が中国語とほぼ同じ意味なので、口語訳で説明します。
 たったの9節ですが、面白い形で記述されてます。ヘブライ文学の特徴の一つとして、対照語で記されています。
 1節の「同じ発音、同じ言葉」と9節の「全地の言葉を乱された」;2節の「シナルの地に住んだ」と8、9節の「全地に散らされた」;3節の「互に言った」と7節の「互に通じない」;4節の「町と塔とを建てる」と8節の「町を建てるのをやめた」。そして、このような対照を5節の「主は下った」ことで、前後を貫いています。つまり、神さまの介入により、人間の思いと行動が変わったのです。

二、人間の罪
 先ずは、1節の「同じ発音、同じ言葉」です。神さまが人間をお創りになった時、神さまと人間、又人間同士とのコミュニケーションを取れるように創ってくださいました。そして、元々の人間は、一つの言語を使っていたことについて、言語学者の意見は一致しています。
 続いて「人々は東に移りました」。ここの新共同訳は、東のほうから来たと記されていますが、口語訳は中国語と同じなので、同じ口語訳で解釈します。聖書の中では、人間が東に移動したことは、神さまから離れ、霊性の坂を下って行くように表現しています(同3:24, 4:16, 13:10-13)。
 そして、シナルの地に平野を見つけて、そこに住み着きました。シナルの地とは、今のイラク南部、つまりバビロニアの地です。そこは、住みやすい平地なので、人間は段々と快適な生活に定着していきました。安定した生活か、混乱な暮らしかのどちらにはまっても、人間は罪を犯しやすいのです。そして、安穏な生活では、特に傲慢な罪を犯しやすいのです。ですから、人間は次第に傲慢になって来てしまいました。
 3-4節、中国語訳には、四つ「われわれ」が記されていますが、日本語の新改訳は二回、口語訳は一回、新共同訳は無しです。ヘブライ語原語では、一回のみですが、中国語の聖書では、人間の傲慢さを強調しているために、四回も出てきているのです。「われわれ」は、自分たちに能力があるという高ぶりを強調しているのです。
 人間は、神さまか他の人間にではなく、私、自分自身に注目するのです。心を自分に向けることは、それほどの傲慢さが心の中にあることなのです。これは、非常に気付きにくい隠密の罪だと言えます。
 4節、「町と塔とを建てる」と書かれてますが、ここの塔、バベルの塔とは、バビロニアの異教の螺旋式の塔だと思われています。人間がこの塔を建てて天まで上り、神の領域に入ろうとしているのです。そして、神さまの名を求めることや、神さまを崇めるのではなく、人間の名を高め、広げ、栄光を自分たちに帰せようと図らっているのです。
 又、神さまが全地に満ちるようにと下した命令に逆らったために、全地に散ることになりました。世界に満ちることを避けて、町に残る事を互い相談しあい、皆で決めてこのような行動を取った経緯なのです。
 洪水の審判から、たった100年ぐらいしか経っていないのですが、人間の罪とはこのように、速やかに広がりました。創世記1-11章では、人間が四回に渡って堕落をしたことが記述されています。今回は、人間が一つの言葉により、一つの心となろうとして罪を犯しました。これは、集団の罪であります。

三、神さまの昔の行動
 人間が傲慢な心の持ち主となった故、自分たちの力で天にまで届く塔を建てることができると思い込んでいました。このような反逆の罪を見逃さないけれど、神さまは、既に人間を二度と滅ぼさないとノアと契約を結んでいました。ですから、このような罪に対して他の解決法をこの箇所で示しました。
 5節の「下って…人の子たちを見て」とは、神さまが天から降りてこないと、人間を見ることができないように記されてますが、このことは、人間はどれほど努力しても、神さまとは莫大な距離があり、人間は愚かだということを表現しているのです。7節には、もう一度「われわれは下って行く」と書かれてます。同じように、人間が天に行く事は不可能だ、ということを強調しているのです。ここの「われわれ」は、三位一体の神さまのことです。
 そして、神さまがこの世に降ってからは、主語の「われわれ」は、人間から神さまに変わりました。人間は到底神さまに及ばないのです。ここでは、主権は神にあることを強調しています。人間は、主権を握りたがっていましたが、最終的には失敗に終わりました。
 ここで、神さまは二つの行動を取って罪の蔓延を防ぎました。それらは、人間の外側と内側の行動においてです。
 外側の行動とは、彼らの言葉を混乱させ、塔を建てることも、意思疎通もできないようにすることでした。人間が一つの言葉、一つの心、そして同じ欲望であったため、このような外面的な結果となりました。
 神さまが人間に求めているのは、一つの心になることですが、一つの心になって神さまを礼拝し、神さまの名を崇め、神さまに栄光を帰すことです。一つの心になって、自分の名を高め、自分の栄光を求めることは、神さまに反逆することです、このような一つの心は神さまの御心には適わないことなのです。
 内側の行動とは、人間の心の中にある偽り、傲慢、野望を明らかになされたことです。いくら隠しても、神さまは、それらを明らかになさるのです。神さまがこのような行動をとった目的は、人間に恥をかかせるためではなく、明らかにして、それに気づき、人間に悔い改める機会を与えているのです。
 今の私たちにしても同じことだと言えます。私たちが一つの心になって、自分の要望を求めていれば、いくら、教会の為だと言い訳をしても、自分たちのバベルの塔を建てていることとなります。又、牧師自身も、これは、だれだれの教会であると言われた時には、自分の栄光を求めているのではないのか、と反省する必要があると思います。私たちは常に、神の栄光を求めているのか、自分の栄光を求めているのか、と問わなければなりません。

四、神さまの今の行動
 今の私たちは、このように、色々な原語、色々な民族に分かれた状態になっています。互いに通じ合おうとしたら、通訳が必要となります。でも、今の私たちにも、神さまは回復の希望を与えて下さっています。それは、キリストにあって一つになれるという希望です。
 リビングバイブルのエペソ人への手紙1:5-10には、「5神様の不変の計画とは、イエス・キリストを遣わし、その死によって、私たちを神様の家族の一員として迎えることでした。それが、神様のお考えでした。6 神様こそ、いっさいの賞賛を受けるべきお方です。神様は、驚くばかりの恵みと愛とを、豊かに注いでくださったのです。それは、私たちが、神様の最愛のひとり息子につながる者となったからです。7 神の子の血を流してまで、私たちの罪を帳消しにしてくださるほど、神様の愛は大きいのです。この神の子によって、私たちは救われました。8 神様は、豊かな恵みを、あふれるほど注いでくださいました。私たちをよく理解し、何が最善であるか、常にご存じだからです。9 神様は、キリストを遣わしたことの隠れた理由を、私たちに知らせてくださいました。その計画は、ずっと昔から、神様の愛のうちに決定ずみでした。10節 それは、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とあります。
 神さまは、キリストが十字で流された血潮で私たちの罪を赦し、命を贖ってくださったということを語っています。それは、わたしたちはどのような民族であれ、どの国の人間であれ、出身を問われず、全ての信徒が神の民になれるということなのです。バベルの塔の集団の罪で散らされた罪罰は、キリストにおいて、一つとなれることなのです。

中国語

一、 前言

因为今天的经文,日文口语訳和中文本较接近,所以将二者印在周报背面,请大家边参考经文来学习。
虽然仅短短9节,却以希伯来文学独有的方式来叙述,是用前后对照呼应的方式来纪载的。
1节「口音、言语都是一样」对照9节「变乱天下人的言语」;2节「在示拿地住」对照8、9节「分散在全地」;3节「彼此商量」对照7节「彼此不通」;4节「要建造城和塔」对照8节「不造那城了」。並以第5節的「神降臨」來貫穿前後文。亦即因着神的介入,人的思想间与行动被迫作了改变。

二、 人类的罪
首先来看1节的「口音、言语都是一样」。神造人时,为了人与神,人与人能够沟通,让人使用同一种语言。许多言语学者也同意这个看法。
接下来「他们往东边迁移」。在圣经中出现「往东挪动」,通常表示离开神,灵性走下坡之意 (3:24, 4:16, 13:10-13)。
然后他们「在示拿地遇见一片平原,就住在那里」。示拿地为今日的伊拉克南部,也就是巴比伦地。那里有肥沃的平原,适合人居住,因此人类就开始过着安舒的生活。人活在混乱的生活中或者过安舒的日子都容易犯罪,在安舒的日子特别容易心生骄傲。
在3-4节,中文出现了四次「我们」。日文新改訳出现二次、口语訳一次、新共同訳没有,但希伯来原文只出现了一次。中文本会出现那么多次,是在强调人的傲慢—「我们」是有能力的!多么地高傲啊。沒有比一个人專顧自己,而非注目在神或其他人更来得骄傲的了。大凡心理有病的人,很容易有这样的倾向,而且这是不太容易发觉的隐密的罪。
4节提到「要建造一座城和塔」。这里的塔,就是有名的巴别塔。这应该是指巴比伦异教那样的螺旋式阶梯塔。人想要盖这种塔,让塔能够到达天上,就是想要进入神的领域。他们的目的不仅如此而已,还想要高举人、宣扬人的名,将荣耀归给自己,而不是求告神的名、敬拜神,将荣耀归给神。此外,也想违抗神「遍满全地」的命令,不想离开安舒的城,不想出去外面受苦。
距离洪水审判世界也不过才经过100多年而已,由此可知罪的扩散是何等地快速啊!在创世记1-11章,记录了四次人类的堕落。这是第四次,因着人一样的语言、同心犯罪,这次是集体的罪。

三、 神过去的行动
人变成心高气傲之后,误认为可以靠着自己的能力上达天庭。神因为和挪亚立了约,不再灭绝人类,但为了不再让这种罪继续蔓延下去,只有想出其他的办法来解决。
5节的「神降下」,单看这一句话,好像神若不从天上下来,就看不到人似的,其实在这里要表达—人无论多么的努力,仍然与神有着莫大的距离。人是何等地愚昧啊!7节再一次出现「我们降下」,之所以出现两次,乃在强调人与神的距离是何等地遥远,愚昧的人竟以为自己可以到天上去。這裡的「我们」是指三位一体的神。
当「神降下」之后,主词从人变成神了。人不过是个被造物而已,无法与神同等的。在此也在表达「主权在神」的观念—人虽想要掌控,终究以失败告终。神在此处以二个行动来防止罪的蔓延。分别作在人的外面和里面。
外面的行动是将他们的言语弄乱,让他们无法沟通来建塔。因着他们一样的语言、同心合意招致这样的结果。
神向人所要的是甚么呢?岂不是同心合意吗?但是神要的是同心敬拜祂、同心颂扬神的名、归荣光给神。若是同心高举自己的名、传扬自己的丰功伟业、将荣耀归给自己,这是违逆神的行为,不合神心意的。
里层的行动,就是将人里面隐藏的虚伪、傲慢、欲望显明出来。神显明人里面的这些罪,不是要让人觉得羞耻,乃是让人看到己罪,予人认罪悔改的机会。
这对现在的我们而言也是一样的。若我们同心想要达成自己的欲望,即或宣称是为了教会,那也很可能只是在建造自己的巴别塔而已;作为一个牧者,当听到有人说,那是某某牧师的教会时,就有必要反省自己,牧会是在荣耀自己或是在荣耀神呢?我们需要常常这样反问自己。

四、 神现今的行動
因着上述原因,现在的我们处在各种语言、各种民族的世界中。若我们想与人沟通,就必须要有人翻译。即便如此,神也给现在的我们救赎的盼望。这盼望在于「信徒在基督里面同归于一」。
当代圣经以弗所书1:5-9
「5上帝因为爱我们,就按照祂自己美好的旨意,预定我们借着耶稣基督得到做祂儿女的名分。6我们赞美祂奇妙无比的恩典,这恩典是上帝借着祂的爱子赐给我们的。7我们借着祂爱子的血蒙救赎,过犯得到赦免,这都是出于祂的洪恩。8上帝用各种智慧和聪明把这恩典丰丰富富地赐给我们,9照着祂在基督里所定的美好计划叫我们知道祂旨意的奥秘。
合和本以弗所书1:10 要照所安排的,在日期满足的时候,使天上、地上、一切所有的都在基督里面同归于一。」
在這裡,神要告诉我们,无论我们信徒出身於哪个民族、哪个国家,因着基督耶稣在十字架上為我們流的宝血,我们的罪都得了赦免、都已經得著救贖。我們都可以成为神的孩子,在基督里面同归于一了。人類造巴别塔所犯的集体的罪,因着基督耶稣的救恩,使我們可以再一次合而为一了,這是合神心意的合一啊!


埼玉中国語伝道所 林美音牧師
(りん みね)





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